勝利の戦利品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 14:47 UTC 版)
「ウィリアム・ネヴィル (初代ケント伯爵)」の記事における「勝利の戦利品」の解説
勝利の報酬は続いた。彼は王の評議会のメンバーにされて、そして北部の代官に任命された。11月1日にケント伯に列せられ、王家の侍従にも任命された。1462年の7月には海軍司令長官(Lord High Admiral)に任命され、その年の8月には西国に46の荘園(領地)を与えられた。 エドワード4世は、陸海戦両方で彼を頼った。タウトンでの勝利の後、彼はノーサンバランドにおける王権の段階的な確立に参加し、1461年の夏にはニューカッスルで120人の駐屯部隊の兵を率いて、そして1462年11月にはアニック(Alnwick)の包囲攻撃にも参加した。これらの間にも彼はカレーに戻り、1462年8月にブルターニュの海岸を襲撃し、ブレストの近くのラ・コンクェストを焼き払い、レ島(Île de Ré 、英語でIle de Re)を襲撃した。 彼は1463年1月9日に亡くなり、遺体はフォーコンバーグ領の中央に位置するギスボロウ修道院に埋葬された。彼の妻は1490年に84歳で亡くなった。彼には3人の娘と、1人の認知した私生児トーマス・ネヴィルがいた。彼はThe Bastard of Fauconberg(フォーコンバーグの庶子)として知られ、後にエドワード4世治下で反乱を主導する事になる。 ウィリアム・ネヴィルはヨーク派が政権に上り詰める過程において過小評価されている人物である。軍の指揮官としては有名なウォリック伯よりも成功していて、彼の評判はグッドマンの言葉で要約される。 「百年戦争のどんな歴戦の勇士も、薔薇戦争中にこれほど抜群の戦功は挙げられなかった。」
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