勝利の組織者
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1791年、パ=ド=カレー県の富豪デュポン家の娘ソフィーと結婚し運が開ける。同年10月、義父らの推薦を受けパ=ド=カレー県から立法議会に立候補し議員に選出された。1792年4月、フランス革命政府のオーストリアへの宣戦によりフランス革命戦争が勃発。緒戦でフランス軍は劣勢に立ち、プロイセン軍が国境へ迫った。軍事通のカルノーは各地へ政治委員として派遣され、フランス軍の補給の確立や平民出身の人材の登用に努め、ヴァルミーの戦いの勝利の礎を作った。 1792年9月には国民公会の議員として再選される。カルノーは引き続き前線各地に出向くことが多く、1793年4月のデュムーリエの裏切りにも遭遇した。戦争は、イギリス、オランダ、スペインの相次ぐ宣戦により、フランスにとって危機的な状況となる。8月、カルノーは前線から呼び戻されて公安委員会の委員となり、軍事に疎いロベスピエールや戦争大臣ブーショットを助け軍事問題を担当し、能力を発揮する事になる。 この時期のカルノーは1日16時間以上を執務にあてたという。徴兵制度の整備、軍需工場の整備、軍制改革を指揮して総力戦体制を確立し、当時史上空前の規模であった14個軍団の創設にあたった。また、10月16日のワッティニーの戦いでは、ジュールダンとともに実戦部隊を率い、自ら陣頭に立って勝利を収めた。フランス軍は再び優勢に立ち、カルノーは一連の功績から「勝利の組織者」と称えられた。
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