タルクィニウス・プリスクスの戦争
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「ローマ・サビニ戦争」の記事における「タルクィニウス・プリスクスの戦争」の解説
紀元前6世紀初め、第五代ローマ王 タルクィニウス・プリスクスの治世の時に、サビニはローマを攻撃した。タルクィニウスはローマを囲む石の城壁を築こうとしたが、サビニ軍は既にアニオ川を渡河していた。このため、タルクィニウスは計画を変更し野戦に打って出た。リウィウスによると、最初の激突は激しいものであったが、どちらも勝利できなかった。 サビニ軍は野営地に撤退したが、この間にローマ軍には援軍が加わった。タルクィニウスは自軍の弱点は騎兵(エクィテス)の不足にあると考えていたため、騎兵を倍増させた。 続いて二度目の戦いが起こった。ローマ軍はサビニ軍の退路を断つために、筏に材木を積んで火をつけ、それを上流から流して川にかかる橋を燃やした。戦闘ではサビニの歩兵がローマ軍を押し、戦列中央部で勝利しそうであった。しかし、ローマ軍騎兵がサビニ歩兵を横撃して蹴散らした。ローマ騎兵の追撃と、橋が焼け落ちていたために、多くのサビニ兵が戦場を離脱できずに戦死した。また川で溺死した兵も多かった。その武器はアニオ川からテヴェレ川を通ってローマに達した。このため、勝利の報告が届く前に、ローマ人は勝利を確信することができた。 タルクィニウスは勝利をさらに確実なものとすることにした。まず戦利品を積み上げて燃やし、火の神ウゥルカーヌスに捧げた。また捕虜と野営地での略奪品をローマに送った。続いてサビニ領に侵攻した。サビニは急いで軍を編成したが、再び敗北した。その後講和を求めた。 サビニ族の都市であったコラティア(en)は降伏し、その周辺地域と共にローマ領となった。リウィウスは降伏文書を記録している。王の甥であるアルンス・タルクィニウス(en)が守備兵と共にコラティアに残り、タルクィニウスは凱旋式のためにローマに戻った。凱旋式記録によると、凱旋式は紀元前585年9月13日に挙行されている。
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