遼西戦役とは? わかりやすく解説

遼西戦役(1638年-1642年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)

明清交替」の記事における「遼西戦役(1638年-1642年)」の解説

国・勢指導者状況目的ホンタイジアバタイ遼西攻撃勝利洪承疇夏成徳、呉三桂松山戦いで敗北洪承疇清に投降 遼西では、明清にとってサルフの戦いに次ぐ重要な戦いが行われた。1638年、清軍は内陸部山東省済南市まで侵入し万里の長城横断してすぐに撤退した。明の崇禎帝は、国内の反乱軍を「内臓の病」、清を単なる発疹」にたとえて反乱軍との戦い集中するよう命じたホンタイジ遼西拠点建設させ、明の錦州や寧遠を攻撃した遼西防衛のため、洪承疇将軍13万と言われる明軍率いて錦州に来ると、ホンタイジ大軍錦州向かい明軍破った松山要塞都市は、明の司令官夏成徳の亡命内通により陥落した松山陥落洪承疇は清軍に投降しその後は清の征服大きく貢献する錦州司令官祖大寿1642年4月8日投降した崇禎帝は、寧遠守備隊司令官呉三桂攻撃命じたが、すぐに撃退された。その時アバタイは、北部江蘇省で金12000両と銀220万両略奪しながら、内陸部向かって別の奇襲攻撃指揮していた。明の大臣周延儒は、勝利の報告でっちあげ敗戦隠蔽する賄賂強要しながら、戦闘関わることを拒否した。ほとんどの勝利の話が捏造であったために、ドルゴンは後に鹵獲した明軍報告読みがらいかに「非常に滑稽であったか」を官吏語った

※この「遼西戦役(1638年-1642年)」の解説は、「明清交替」の解説の一部です。
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