遼西戦役(1638年-1642年)
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「明清交替」の記事における「遼西戦役(1638年-1642年)」の解説
国・勢力指導者状況・目的清 ホンタイジ、アバタイ等 遼西を攻撃。勝利 明 洪承疇、夏成徳、呉三桂等 松山の戦いで敗北。洪承疇は清に投降 遼西では、明清にとってサルフの戦いに次ぐ重要な戦いが行われた。1638年、清軍は内陸部の山東省済南市まで侵入し、万里の長城を横断してすぐに撤退した。明の崇禎帝は、国内の反乱軍を「内臓の病」、清を単なる「発疹」にたとえて、反乱軍との戦いに集中するよう命じた。ホンタイジは遼西に拠点を建設させ、明の錦州や寧遠を攻撃した。遼西防衛のため、洪承疇将軍が13万とも言われる明軍を率いて錦州に来ると、ホンタイジも大軍で錦州へ向かい明軍を破った。松山の要塞都市は、明の司令官・夏成徳の亡命と内通により陥落した。松山の陥落で洪承疇は清軍に投降し、その後は清の征服に大きく貢献する。錦州の司令官祖大寿も1642年4月8日に投降した。 崇禎帝は、寧遠守備隊司令官の呉三桂に攻撃を命じたが、すぐに撃退された。その時アバタイは、北部江蘇省で金12000両と銀220万両を略奪しながら、内陸部に向かって別の奇襲攻撃を指揮していた。明の大臣周延儒は、勝利の報告をでっちあげて敗戦を隠蔽する賄賂を強要しながら、戦闘に関わることを拒否した。ほとんどの勝利の話が捏造であったために、ドルゴンは後に鹵獲した明軍の報告を読みながらいかに「非常に滑稽であったか」を官吏に語った。
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