遼西に移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)
同年、遼東が僻地であった事から、遼西に移住して徒河の青山(現在の遼寧省錦州市義県の東)を本拠地とした。 294年、五帝の一人である顓頊の墳墓があるという棘城(現在の遼寧省錦州市義県の西)に拠点を移した。農業と養蚕に力を注ぐと共に、中国と同じ法律や制度を整えていった。この頃、晋の朝廷は後に八王の乱と称される権力闘争の真っ只中であり、300年には皇后賈南風が趙王司馬倫らのクーデターによって処刑され、その司馬倫も恵帝を脅して禅譲を要求し皇帝を称したものの、301年には斉王司馬冏らのクーデターにより処刑されるという事態となっていた。 301年から302年頃、燕の地方(幽州一帯)で大洪水が発生した。これを受け、慕容廆は倉を開放し、幽州の人民へ食糧を支給して救済に努めた。これにより恵帝より大いに称賛され、命服(官僚がその等級に応じて着用する礼服)を下賜された。
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