執政官と妥協のアルバ山凱旋式
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「クィントゥス・ミヌキウス・ルフス」の記事における「執政官と妥協のアルバ山凱旋式」の解説
紀元前197年にはガイウス・コルネリウス・ケテグスと共に執政官に就任し、ガリア人とリグリア人(en)を相手に戦った。その年は、両執政官共にイタリア半島内で共通の戦略の下で戦った。ルフスはゲヌア(現在のジェノア)に軍を進め、さらにリグリアに侵攻し、リグリア人と戦った。続いてアペニン山脈を越えて、ガリア人の一部族であるボイイ族の領土に侵入して略奪を行った。ボイイ族はインスブリ族(en)に救援を求めたが無視された。 他方、同僚執政官であるケテグスはインスブリ族とケノマニ族(en)と戦ったが、一度の会戦の勝利により、敵兵35,000を殺害、5,200を捕虜にした。両執政官の勝利の報告が届くと、ローマでは4日間の感謝祭が実施された。両執政官はベローナ神殿(en)に参拝して、合同凱旋式の実施を求めた。しかし、二人の護民官はルフスの求めを拒絶し、二日間の議論の後、ルフスは要求を撤回した。他方、ケテグスは再度凱旋式を求めたが、元老院は全会一致で「オモニウム・コンセンス」(合意)を与えた。他方、ルフスの凱旋式は認められなかったが、リウィウスはルフスが捕虜を取らなかったためにその勝利が確認できなかったためとしている。また、ルフスは数度の戦闘を行っていたが損失も大きく、また決定的な勝利を収めることはできていなかった。 このためルフスは自身の支出で、ボイイ族とリグリア人に対する勝利を記念した凱旋式を、アルバ山で実施した。このアルバ山凱旋式は凱旋式のファスティに記録されているが、元老院は「凱旋将軍」としては認めず、その経費は自身で負担する必要があった。戦利品の売却益が費用に充てられたが、(国庫に入る資金が減るため)公的資産を使用したとの非難もあった。
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