執政官就任およびその後
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「セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前144年の執政官)」の記事における「執政官就任およびその後」の解説
この裁判はガルバの政治生命を絶った訳ではなかったが、深刻な影響を与えた。ウィッリウス法によれば執政官就任最低年齢は43歳であり、ガルバはおそらく紀元前148年には資格を有するはずであったが、立候補できなかった。紀元前147年には、特例ではあるが10歳ほど年下のスキピオ・アエミリアヌスが執政官に就任しており、歴史学者ミュンツァーはガルバは自身の政治的地位の低下を実感したであろうとしている。しかしそれでも紀元前144年には執政官に就任した。同僚のプレブス(平民)執政官はルキウス・アウレリウス・コッタであったが、祖父プブリウスが紀元前200年に執政官を務めたとき、コッタの祖父ガイウスもまた執政官を務めていた。 ガルバもコッタも、ヒスパニア・ウルテリオルでのヴィリアトゥスの反乱が深刻化していたため、そこに派遣されることを望んだ。しかし、当時最も影響力の会ったスキピオ・アエミリアヌスは、これに反対した。彼は元老院で「ガルバには何もないし、コッタには何も満足させるものがない。どちらもヒスパニアに派遣す送る価値はないと思う」と述べた。結果、スキピオ・アエミリアヌスの実の兄弟で前年の執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌスが、プロコンスル(前執政官)として引き続き戦争を指揮することとなった。 執政官任期終了後直ぐに(紀元前142年頃)、義理の兄弟であるプブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスがアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任することを支援した。クラッススはローマで最も富裕な人物の一人であり、ガルバの息子ガイウスはクラッススの娘と結婚していた。ガルバはクレタ島に派遣され、2つの都市間の戦争を調停しているが、これはおそらく紀元前137年、すなわちガルバの盟友のマルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナが執政官を務めていたときと推定される。 ガルバの没年は不明であが、少なくとも60歳に達していたとされる。
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執政官就任およびその後
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「ルキウス・アウレリウス・コッタ (紀元前144年の執政官)」の記事における「執政官就任およびその後」の解説
紀元前144年、コッタは執政官に就任した。同僚のパトリキ(貴族)執政官はセルウィウス・スルピキウス・ガルバであった。第三次ポエニ戦争が終了して2年目であり、カルタゴに勝利したプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌスは、ローマで最も影響力のある政治家となっていた。それに伴い、穏健な改革派である「スキピオ・サークル」が権力を握るようになった。対するコッタを始めとするアウレリウス氏族はセルウィルス氏族やカエキリア氏族と共に、より保守的な政策を提唱する「反スキピオ派」の中核となった。 元老院における二つの派閥の対立は、コッタの執政官任期中にはすでに明白になっていた。コッタもガルバも、ヒスパニア・ウルテリオルでのヴィリアトゥスが率いるルシタニア人の反乱が深刻化していたため、そこに派遣されることを望んだ。元老院の意見は割れたが、スキピオ・アエミリアヌスは、これに反対した。彼は「ガルバには何もないし、コッタには何も満足させるものがない。どちらもヒスパニアに派遣す送る価値はないと思う」と述べた。結果、スキピオ・アエミリアヌスの実の兄弟で前年の執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌスが、プロコンスル(前執政官)として引き続き戦争を指揮することとなった。 おそらくガルバは翌年の執政官選挙に立候補したクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスを支援したと思われる。ガルバの支援もあってメテッルスは3度めの挑戦で執政官に当選した。 コッタはその後、スキピオ・アエミリアヌスによって恐喝の罪で告訴された。メッテルス・マケドニクスがコッタを弁護し、コッタは無罪となったが、告訴者の権威が判決に影響を与えることはないということを、裁判官が示したかったことが大きい。しかし、後にガイウス・センプロニウス・グラックス(グラックス兄)は、裁判官が賄賂を受けていたと述べており、これを彼の司法改革の理由の一つとしている。コッタのその後に関する資料はない
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