紀元前147年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 18:48 UTC 版)
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紀元前147年は、ローマ暦の年である。
他の紀年法
できごと
ローマ
- スキピオ・アエミリアヌスはカルタゴの戦いを指揮し、湾に防波堤を築いた。カルタゴ人は海岸から運河を掘って抵抗したが、敗れた。
- カルタゴは、流罪になっていた将軍ハスドゥルバルを呼び戻し、防御を固めさせた。13.7mの城壁を築き、ローマ軍の侵攻を遅らせた。
シリア
ギリシア
誕生
死去
脚注
注釈
出典
関連項目
紀元前147年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 06:10 UTC 版)
詳細は「カルタゴ港海戦」および「ネフェリスの戦い (紀元前147年)(英語版)」を参照 スキピオは紀元前147年に就任する公職者の選挙において、自然な成り行きとして按察官(アエディリス)に立候補するつもりであった。その一方でスキピオを執政官に任命してアフリカにおける戦争を担当させたいという世論が大きな高まりを見せていた。しかし、当時36歳か37歳であったスキピオは、ウィッリウス法(英語版)で定められていた執政官の最低年齢である43歳には達していなかった。舞台裏ではかなりの政治的な駆け引きが行われた。スキピオの支持者たちは、それまでの2年間の成功と第二次ポエニ戦争でアフリカにおけるローマ軍の勝利を決定づけたのが養祖父のスキピオ・アフリカヌスであるという事実を利用した。結局、元老院は世論に押された形でその年だけウィッリウス法を無効にするよう護民官に指示した。スキピオは執政官に選出され、通常は戦争の任地を二人の執政官の間でくじ引きで割り当てるにもかかわらず、単独でアフリカのローマ軍の総司令官に任じられた。スキピオはアフリカの軍隊の人員を補充するために十分な兵を徴集することができる通常の権限に加え、志願兵を入隊させることができる異例の権限が与えられた。 スキピオはローマ軍の本陣をカルタゴの近くに戻したが、これに対してカルタゴ軍の8,000人の分隊が厳重な警戒に当たった。スキピオは規律の強化を求める演説を行い、規律に欠けるか士気に乏しいと見なされた兵士たちを追放した。その後、スキピオは強力な部隊を率いて夜襲を仕掛け、ローマ軍がカルタゴの城壁の弱点と考えていた場所を攻撃した。ローマ軍は一つの門を奪い、4,000人の兵士が市内になだれ込んだ。暗闇の中でパニックに陥ったカルタゴ軍の守備隊は最初は激しく抵抗したものの、やがて逃亡した。スキピオはカルタゴ軍が夜明けに態勢を立て直せば自軍の拠点が無防備になると判断して撤退した。ハスドルバルはカルタゴ軍の防御が崩壊に至った手段に衝撃を受け、ローマ軍が目の前にいる城壁の上で捕虜に拷問を加えて殺害した。そして今後は交渉はおろか降伏の可能性すらないとしてカルタゴ市民の抵抗の意志を強化していった。都市の議会の一部の議員はハスドルバルの行動を非難したが、これに対してハスドルバルはこれらの議員までも処刑し、都市の全権を掌握した。 その後、再度のカルタゴに対する包囲によって陸側からの都市への進入を封鎖したものの、海側からの厳重な封鎖は当時の海軍技術ではほとんど不可能であった。船積みによって都市に運び込まれる食糧の量に苛立ちを募らせたスキピオは、封鎖を突破しようとする船を遮って港への接近手段を封じるために巨大な堤防を建設した。これに対してカルタゴは港から海に向かう新しい水路を切り開いた。そして同時に新しい艦隊を建造し、水路が完成すると艦隊を出撃させてローマ軍の不意を付いた。その後のカルタゴ港の海戦でカルタゴ軍はローマ軍に対して引けを取らずに戦ったが、撤退時に多くの船が堤防に阻まれて沈没するか拿捕された。続いてローマ軍は港湾周辺のカルタゴ軍の防衛拠点に対する攻撃を試み、最終的に埠頭を制圧した。そして数ヶ月をかけて制圧した場所から城壁と同じ高さのレンガ造りの構造物を建設し、最大で4,000人のローマ兵が近距離からカルタゴの城壁の上へ砲撃できる体制を作った。 この機能が完成すると、スキピオはカルタゴの野戦軍と対決するために大規模な部隊を率いてネフェリスへ向かった。ディオゲネスという名のギリシア人が指揮していたカルタゴ軍は、冬営地として要塞化された陣地を築いていた。紀元前147年末にスキピオは複数の方角からカルタゴ軍の陣地への攻撃を指示し、陣地を制圧することに成功した。逃走するカルタゴ軍はローマの同盟者であるヌミディア人の騎兵に追われ、逃げ延びた者はほとんどいなかった。その後ネフェリスの町は包囲され、3週間後に降伏した。それから程なくしてカルタゴの後背地で抵抗を続けていた要塞のほとんどがその門を開いた。
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