執政官としてバルカン半島に出征
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「マルクス・フルウィウス・ノビリオル (紀元前189年の執政官)」の記事における「執政官としてバルカン半島に出征」の解説
紀元前189年の執政官は、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世と同盟したアエトリアと戦うスキピオ兄弟(スキピオ・アフリカヌスとスキピオ・アシアティクス)に代わって、東方での軍事行動を担当することとなっていた。執政官の一人はアエトリア、もう一人は小アジアでの戦闘を終結させなければならなかった。くじ引きの結果、ノビリオルはアエトリアを担当することとなった。ノビリオルは春にはバルカン半島に渡り、エピロスの同盟国のアドバイスを受けてアンブラキアを包囲した。ローマ軍は攻城兵器を使い坑道を掘削したが、街の防御は固く頑強に抵抗した。最終的に講和交渉が開始され、アテナイとアタマニア(en)のアミナンデル王が仲裁を行った。締結された条約では、アエトリア同盟は賠償金200タレントを直ちに支払い、300タレントを6年間で支払うこととなった。加えて、アエトリアが同盟を継続することは禁止され、ローマに降伏するかあるいは友好関係にある都市を併合することも禁止された。 アンブラキアは略奪は免れたが、ノビリオルは彫刻と絵画は奪い去った。アンブラキアは一時ピュロスが首都にしていた街であったため、美術品の数は多かった。その後ノビリオルはケファロニア島に上陸した。多くの都市は戦うことなく降伏したが、サマは翌年初めまで4ヶ月間抵抗した。降伏前にノビリオルは選挙のために一旦ローマに戻ったが、マルクス・アエミリウス・レピドゥスの執政官就任を再度阻止した。その後ペロポネソス半島に渡り、スパルタとアカイア同盟との会議に臨んだ。 紀元前187年、ノビリオルの政敵であるレピドゥスが執政官に就任した。もう一人の執政官は元同僚のガイウス・フラミニウスであった。アンブラキアの外交使節は、戦争の責任、残虐行為と略奪でノビリオルを訴えていたが、レピドゥスはこれを支援した。フラミニウスはノビリオルの側に立ったが、元老院はノビリオルが持ち出した資産をアンブラキアに返却するように求めた。ノビリオルはローマに戻り、自信の勝利に対する凱旋式を求めた。護民官の一人のマルクス・アブリウスは、その時にローマを離れていたレピドゥスが戻るのを待つべきとした。しかしもう一人の護民官であるティベリウス・センプロニウス・グラックスはノビリオルを支持した。結果としてノビリオルは凱旋式実施を認められ、またローマの主神ユーピテルを讃える競技会を実施した。 アエトリア戦争での彼の友人はローマ詩の父といわれるクイントゥス・エンニウスであり、ノビリオルの勝利を詩で讃えている。
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