執政官および監察官
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「マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ニゲル」の記事における「執政官および監察官」の解説
紀元前61年、メッサッラ・ニゲルは執政官に就任する。同僚はプレブス(平民)のマルクス・プピウス・ピソ・フルギ・カルプルニアヌスであった。執政官任期中の主たるできごととしてプブリウス・クロディウス・プルケルのスキャンダルの裁判がある。 前年の12月、男子禁制のボナ・デアの祭りが最高神祇官カエサルの家で行なわれた際、クロディウスが女装して参加したため儀式がやり直された。プルタルコスによれば、カエサルの妻であったポンペイアがこれを手引きしたものの、すぐに見つかったとされる。この行為は神祇官やウェスタの処女によって「神への冒瀆」と決議され、元老院の多数はクロディウスを裁判にかけることを求めた。カルプルニアヌスは、クロディウスがポンペイウスの友人で同盟者であったにもかかわらず、彼を裁く特別審問所を開くための法令(Lex Pupia Valeria de incestu Clodii)のロガティオ(提案)を作成しなければならなかった。ロガティオは元老院の承認を経て公示されたものの、カルプルニアヌスはこの提案を無効にしようと試みた。一方でメッサッラ・ニゲルは厳しい処置を求めた。キケロはメッサッラ・ニゲルを「素晴らしい、力強い、変わらない、その熱意、僕のこと讃えて、慕って、真似してくれて(egregius, fortis, constans, diligens, nostri laudator, amator, imitator.)」とべた褒めしている。クロディウスの裁判はカルプルニアヌスの妨害にも関わらず実施されたが、十分な数の有罪票は得られなかった。執政官としてのメッサラ・ニゲルに関しては、それ以外の記録はない。 紀元前59年、メッサッラ・ニゲルはカエサルが制定した法律(Lex Iulia agraria campana)に基づいて、貧しい人々と若い市民にカプアの土地を割り当てるための二十人委員会の、司法を担当する五人委員会の一人に選ばれた。 紀元前58年、この前年にプレブスとなり、この年の護民官となっていたクロディウスは、キケロがカティリナの共謀者を処刑したことに狙いをつけ、民会の正式な裁判無しに市民を処刑することを違法とする法(Lex Clodia de capite civis romani)を通し、更にキケロを追放する法(Lex Clodia de exilio Ciceronis)を通過させた。メッサッラ・ニゲルはキケロとその家族に同情したが、おそらくキケロは彼の支援を期待していたのであろう。クロディウスはパラティヌスにあったキケロの家が国家に没収されるように手配し、自分の家を拡張するために土地の一部を購入することさえした。さらに、キケロの家を取り壊した後に土地を奉納し、空き地にリーベルタース神殿を建立した。翌年キケロの追放は解除されローマに戻るが、メッサッラ・ニゲルはポンティフェクス(神祇官)の一人として、キケロが家を再建する権利があると支持し、リーベルタース神殿を取り壊した。キケロは家を再建し、クロディウスはそれを冒涜と宣言した。神祇官たちは満場一致でマキケロを支持した。 メッサッラ・ニゲルが三度インテルレクス(執政官選挙のために民会を召集する臨時職)を務めたことが、碑文に書いてある。おそらくは紀元前55年1月(ポンペイウスとクラッススが共に二度目の執政官に就任)、紀元前53年、紀元前52年のことと思われる。紀元前55年には監察官に就任する。同僚は同じく神祇官の一員であったが、30歳も年上のプブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクスであった。二人は紀元前54年に大洪水を起こしたティベリス川の治水工事を行い、またルーストルム(国勢調査完了後に行う清めの儀式)を行わなかったことが知られている。市民は冗談で、メッサッラ・ニゲルを監察官メノゲネス(Menogenes)と呼んでいたが、これは彼の外観が俳優のメノゲネスに似ていたためである。
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