執政官I
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「マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前187年の執政官)」の記事における「執政官I」の解説
しかしリピドゥスはその翌年も立候補してついに当選、紀元前187年の執政官に就任した。同僚執政官はガイウス・フラミニウスであった。この年、東方に出征していたノビリオルとウルソがローマに帰還すると、彼らに対する訴訟がなされた。レピドゥスは何れの場合も原告側を支援し、彼らの凱旋式の実施を阻止しようとした。ウルソを訴えたのは、アンティオコスとの講和交渉を行った10人委員会であり、その中にはリピドゥスの元同僚のルキウス・アエミリウスも含まれていた。訴訟の理由はウルソが当初の合意に反してアンティオコスを捕らえようとしたこと、ガラティアに対する戦争を元老院の承認を得ずに始めたこと、条約交渉においてペルガモンの利益になるように働いたこと、トラキアで現地部族に襲撃された際に有効な反撃ができなかったこと、であった。ノビリオルを訴えたのはアンブラキアの外交使節で、アンブラキアに対する攻撃を開始した責任、残虐行為と講和後の美術品略奪が理由であった。ガイウル・フラミニウスはノビリオルを支持した。元老院はノビリオルに略奪品をアンブラキアに返却するように求めたが、最後にはウルソ、ノビリオルに凱旋式の実施を許可した。 ローマ・シリア戦争が終結したため、レピドゥスとフラミニウスの両執政官ともに、イタリア北部のリグリアで戦うこととなった。レピドゥスは一度の会戦で勝利し、アペニン山脈の両側の多くの部側を支配下に置き、リグリア人を山岳部から平野部へと移動させた。その地域でのローマの権力を確実なものにするため、レピドゥスはアリミヌム(現在のリミニ)からプラケンティア(現在のピアチェンツァ)まで街道を建設した。この街道はフラミニウス街道と連結し、アエミリア街道と呼ばれることになる、途中のカストラ(大規模な野営地の意味だが、この場合は工事拠点)は彼の名前からレギウム・レピディ(現在のレッジョ・エミリア)と名づけられた。ガリア・キサルピナのケノマニ族(en)がレピドゥスを頼り、法務官マルクス・フルウィウス・クラシペダを訴えて来た際には、レピドゥスはケノマニ族に有利な決定をしている。
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執政官 I
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「ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス」の記事における「執政官 I」の解説
紀元前182年、コンスル(執政官)に選出された。同僚はグナエウス・バエビウス・タンピルスで、リグリアを両人で担当した。そこで勝利すると、リグリア人は隣のガリアにいたマルケッルスに降伏を申し込んだが、元老院は両執政官に武装解除させた。タンピルスが選挙管理のためローマへ戻され、パウッルスはピサエで年を越した。 翌年もプロコンスルとしてタンピルスと共にリグリアを担当したが、インガウニ族(英語版)と遭遇し、休戦協定を結んだものの奇襲を受けて陣地に押し込められた。タンピルスやマルケッルスは他の場所へ軍団を移送中で動けなかったため、プラエトルだったクィントゥス・ペティッリウス・スプリヌスらが緊急に軍を編成し、ガイウス・マティエヌスとガイウス・ルクレティウス・ガッルスが海軍二人官に任命されて救援に赴いた。パウッルスは救援が遅いため、打って出ることを決め、ハンニバルやピリッポス5世、アンティオコス3世といった強敵に比べれば、こそこそと逃げ回る強盗のごときは敵では無いと兵たちに奮起を促し、油断した敵を打ち破って降伏させ、海賊も鎮圧した。ローマでは3日間の感謝祭が開かれ、パウッルスの軍は解散が認められた。 紀元前171年、遠近ヒスパニアの民が元老院で担当政務官による搾取を訴えたため、大カト、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ、ガイウス・スルピキウス・ガッルス (紀元前166年の執政官)らと共に彼らの側に立って弁護を行ったが、ある者は無罪となり、ある者たちは亡命した。
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