執政など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 10:07 UTC 版)
杉山忠兵衛(先代) / 雪庵 鹿之助の父で、小黒派が権力を握る前の家老。遠慮なく賄賂を受け取り、それを私利私欲のために使うことをはばからなかった。一方で、戸浦湊を広げて千石船が出入りできるようにしたり、孫助の進言を容れて長四郎堰を開削させたり、土塁を築いて戸部川の溢水止めに取り組むなどの実績を残した。しかし、小黒派との政争に負けて執政府を去り、鹿之助に家督を譲った。 金井権十郎 小黒派が権力を握る前の家老。権力者に珍しく人格高潔で賄賂とは無縁だったが、それ故に人のために金を使うこともなく、まわりに人が集まらなかったと言われる。執政を退いた後、桐の間の年寄のひとりに任じられる。 小見山兵庫 小黒時代の筆頭家老。次席家老の小黒に取り込まれ、その政策を支持した。そして、小黒と共に閉門させられ、失脚する。 松波伊織 小黒時代からの中老。杉山派。小黒と小宮山の両家老が、藩の借金先である近江商人から長年賄賂を受け取っていたことを執政会議で暴露し、逆に謹慎処分となった。その後、小黒派の失脚で復権。佐治が罷免された後、家老となる。 忠兵衛(鹿之助)の失脚に連座して執政府から追放され、樽岡外記と謀って又左衛門に刺客を送った。 内藤与七郎 小黒時代の中老。杉山派。太蔵が原開墾に武家を動員する案に反対したが、結局小黒に押し切られて、現場指揮を執ることになった。そして、工事失敗の責任を転嫁されて、執政府を去る。小黒派が失脚すると、新しくできた藩校の総監となった。 佐治庸助 松波を罷免した小黒派への牽制のため、藩主の下命により中老に任じられた。当時は杉山派と見られていて、小黒派が失脚して忠兵衛が権力を握った時も、ただ1人執政府に留まり、家老に昇進した。 又左衛門が中老として執政入りすると、料理茶屋に呼び出し、忠兵衛への不満を聞かせた。8人いる執政の中で、反杉山派は佐治、次席家老多田蔵人、中老和田甚之丞の3名のため、又左衛門を取り込もうとしたためである。しかし、黒川郡の百姓が強訴のために城下に集結した際、対処を誤って百姓をかえって激昂させた不手際を突かれ、家老職を罷免される。 和田甚之丞 杉山時代の中老。学問好きの物静かなたたずまいの一方で、番頭として城内を取り締まった5年間は、威令が行き届いて事故一つ起きなかったという、外柔内剛の人柄。佐治が罷免され、多田も病気を理由に退職した後、又左衛門と、杉山派に対する共闘を約束した。 牧原喜左衛門 用人。禄高300石。小黒武兵衛が権力を握っていた時の執政に関して、藩主の意を反小黒派に伝えるため、密かに杉山家を訪れた。その際、忠兵衛の依頼で隼太が警護を担ったが、市之丞もまた密かに陰警護を行なっていた。 孫助のことを高く評価し、郡代に推薦したこともある。隼太のことも信頼し、密かに町見家の田口半平を紹介した。 堀田勘解由 小黒・杉山時代の大目付。小黒勝三郎らが忠兵衛を襲ったのが、忠兵衛の仕組んだことではないかと疑い調査したが、公式には証拠は得られなかったと報告した。しかし、隠居の直前に重要な目撃証言を得、それを又左衛門に伝えた。 堀田衛夫 桑山時代の組頭。又左衛門の政治手腕に心酔している。樽岡外記らの又左衛門暗殺計画を掴んで、又左衛門に警告した。 奥山権四郎 桑山時代の大目付。最初、又左衛門は果たし合いのことを奥山に伝えることをはばかったが、当日になって届け出た。奥山は、手は出さないものの、配下を遠巻きに伏せることを約束した。
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