執念・屈辱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:26 UTC 版)
1994年度は、第64期棋聖戦(谷川1-3羽生)と第42期王座戦(谷川0-3羽生)で羽生に挑戦するが、いずれも敗退する。一方、羽生は、名人、竜王をそれぞれ米長邦雄、佐藤康光から奪取して史上初の六冠王となり、残るタイトルは、谷川が持つ王将位だけという状況になった。そして、羽生は第44期王将リーグで5勝1敗を挙げ、郷田とのプレーオフを制し、全七冠制覇をかけて谷川王将への挑戦を決めた。 迎えた第44期王将戦(谷川4-3羽生)は、第1局(1995年1月12-13日)の谷川の先勝で始まった。ところが、第2局(1月23-24日)の前の1月17日、谷川は阪神・淡路大震災で被災した。1月20日には米長邦雄とのA級順位戦があり、19日に妻の運転で神戸から大阪に脱出したが、13時間もかかったという。それでも谷川は、対・米長戦で勝ち、羽生との王将戦第2局も勝利した。しかし、羽生も粘って3勝3敗とし、フルセットに持ち込んだ。 そして、青森県・奥入瀬で行われた最終第7局(1995年3月23-24日)は相矢倉の将棋となったが、2日目に76手で千日手が成立し、その日のうちに指し直しとなった。指し直し局は、先手・後手が逆であるにもかかわらず、40手目まで千日手局と全く同じ手順で進み、「お互いの意思がピッタリ合った」。41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。結果、111手で先手・谷川の勝ちとなり、4勝3敗で王将を防衛、最後の砦として羽生の七冠独占を阻止した。この日は、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。後に谷川は、「震災がなかったら獲られていたかもしれない」と語っている。また、後年、インタビューにて「一度、七冠のチャンスは作れても、二度は無理だろうと思っていた。」とも語っている。 1995年度、羽生は開幕から名人、棋聖、王位、王座、竜王と全て防衛に成功し、さらに王将リーグも再び制覇して2年連続で谷川王将の挑戦者となった。 この第45期王将戦七番勝負(谷川0-4羽生)では、羽生が開幕から3連勝し、あっという間に谷川を追い詰めた。 山口県のマリンピアくろいで行われた第4局(1996年2月13日-14日)の戦形は、勝っても負けても大差の内容になりやすい「横歩取り」となり、谷川は先手番で中原囲いを組むという新構想を見せる。2日目の模様は、NHKの衛星テレビで放送され、時間枠は午前9時から終局まで(12:00 - 13:30は中断)という異例の長さであった。その中継会場(大盤解説)は大入りで、その熱気で解説役の森下卓、山田久美は汗だくだったという。谷川にとっては、37手目が悔やまれる一手であった。2日目の15時半頃にはすでに羽生が勝勢になり、自玉に受けがなくなった谷川は、77、79手目の形作りの手で、首を差し出した。以下は易しい詰みとなり、羽生が82手目△7八金と引いて王手をかけた手を見て、17時6分、谷川は投了した。谷川にとっては屈辱の、七冠王誕生であった。終局直後のインタビューでは「せっかく注目してもらったのに、ファンの方にも羽生さんにも申し訳ない」と述べた。
※この「執念・屈辱」の解説は、「谷川浩司」の解説の一部です。
「執念・屈辱」を含む「谷川浩司」の記事については、「谷川浩司」の概要を参照ください。
- 執念・屈辱のページへのリンク