執政と孤立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 14:20 UTC 版)
執政の座についた頼長は意欲に燃え、学術の再興、弛緩した政治の刷新を目指した。その信条は聖徳太子の十七条憲法により天下を撥乱反正することにあった(『台記』康治2年10月22日条)。勢力を強めていた奥州藤原氏の藤原基衡にも、自身の荘園の年貢増徴を要求して、仁平3年(1153年)に妥結した。しかし律令や儒教の論理を重視して、実際の慣例を無視する頼長の政治は周囲の理解を得られず、院近臣である中・下級貴族の反発を招き孤立していった。また、近衛天皇も頼長をあからさまに嫌うようになった。 その後、頼長は周囲と衝突を繰り返す問題児の態をなす。即ち、仁平元年(1151年)9月、家人に命じて鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊するという事件、仁平2年(1152年)仁和寺境内に検非違使を送り込み僧侶と騒擾、仁平3年(1153年)5月、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を強引に追捕しようとしての流血事件、同年6月に上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縄する騒ぎ、などである。これらの一連の出来事は、頼長自身の綱紀粛正の意味もあったが、かえって、寺社勢力とも対立を深め、仁平4年(1154年)4月、延暦寺の僧たちによる満山呪詛を生じせしめた。こうして、頼長は対立勢力を勢いづけ、ひいては徐々に法皇からの信頼を失っていくことになる。 久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇が崩御した。後継天皇を決める王者議定に参加したのは久我雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子・守仁王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁王はまだ年少であり、存命する父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁親王擁立の背景には、雅仁親王の乳母の夫である信西の策動があったと推測される。この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、内覧を停止されて事実上の失脚状態となっていた。口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという。頼長はそもそもそんな像があるとは知らなかったからできるはずがないと記述している(『台記』久寿2年8月27日条)。歴史研究者は事件は忠通や信西による謀略であると見ている。忠実は頼長を謹慎させ連絡役である高陽院を通じて法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が薨去したことでその望みを絶たれた。
※この「執政と孤立」の解説は、「藤原頼長」の解説の一部です。
「執政と孤立」を含む「藤原頼長」の記事については、「藤原頼長」の概要を参照ください。
- 執政と孤立のページへのリンク