ブルース家 (1306年 - 1371年)
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「スコットランド君主一覧」の記事における「ブルース家 (1306年 - 1371年)」の解説
10年にわたり、スコットランドには自国の国王がいなかった。しかし、スコットランド人はイングランドの支配を受け入れることを拒絶し、最初はウィリアム・ウォレスのもとで、ウォレス処刑後はロバート・ド・ブルース(1292年に王位を争った者の孫)のもとでイングランド人と戦った。ブルースとその支持者は王位を争うバッドノック男爵ジョン3世・カミンを1306年2月10日にダムフリアーズのグレイフライアーズ教会で殺害した。それから程なくして、1306年にブルースはスクーンでスコットランド国王として戴冠した。ブルースが強力であったことと、精力的なエドワード1世が軟弱なエドワード2世に交替したことにより、スコットランドはイングランドの支配から自由となった。1314年のバノックバーンの戦いでスコットランド軍はイングランド軍を潰走させ、1329年までにイングランドはスコットランドの独立を受け入れることを条約により同意した。ブルースの後継者デイヴィッド2世は幼少であったため、イングランドはスコットランドとの戦争を再開し、ジョン・ベイリャルの息子であるエドワード・ベイリャルはデイヴィッド2世を追放して王位につきスコットランド南部の複数の州をイングランドに割譲したが、後に追放された。デイヴィッド2世の人生の大半は亡命中の身であり、最初は同盟国フランスで自由の身であったが、その後イングランドで投獄され、スコットランドに戻ることができたのは1357年であった。1371年にデイヴィッド2世が子を残すことなく死去したことでブルース家は断絶した。 名前肖像画誕生結婚死去王朝における出自ロバート1世幸運王(Roibert a Briuis)1306年–1329年 1274年7月11日ターンベリー城, エアシャー6代アナンデイル領主ロバート・ド・ブルース とキャリック女伯マージョリーの息子 イザベル・オブ・マー1295年1人娘を儲けるエリザベス・ド・バラライトル, エセックス, イングランド1302年3人の子を儲ける 1329年6月7日 ダンバートンシャーのカードロス・マナー(アーガイル・アンド・ビュート)54歳没 ウィリアム1世の弟 ハンティンドン伯デイヴィッドの玄孫(選出) デイヴィッド2世(Dàibhidh Bruis)1329年–1371年 1324年3月5日 ファイフのダンファームリン宮殿ロバート1世とエリザベス・ド・バラの息子 ジョーン・オブ・ザ・タワーバーウィック・アポン・ツイード1328年7月18日子を儲けずマーガレット・ドラモンドインチマーダック(Inchmurdach), ファイフ1364年2月20日子を儲けず 1371年2月22日エディンバラ城46歳没 ロバート1世の息子(長子相続)
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