リスボン遠征
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「ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)」の記事における「リスボン遠征」の解説
1588年7月のアルマダの海戦はイングランドの勝利に終わったが、スペイン無敵艦隊は北海へ撤退し、その後情報がなかった。女王は1589年初頭にも無敵艦隊壊滅作戦を開始したが、出撃するフランシス・ドレークやジョン・ノウルズ(英語版)らがポルトガル沖でのスペイン船略奪を希望したので結局この作戦はスペイン領ポルトガルへの遠征作戦と化した。 エセックス伯も戦利品を借金返済に充てる目論みでドレークの遠征への参加を希望し、1589年4月に女王の勅許も得ずに宮廷から姿を消したかと思うとプリマス港からサー・ロジャー・ウィリアムズ(英語版)の指揮する女王の旗艦スウィフトシュアに搭乗して出航した。 同艦隊はリスボン沖でドレークの艦隊と合流。その後二手に分かれ、エセックス伯は6000の兵を率いて陸路でリスボンへ向かった。しかし重い装備と暑さで軍は消耗し、リスボンに到着したころには疲労しきっていた。しかもタグス川を上ってくるはずのドレークの艦隊の到着が遅れてなかなか姿を見せなかった。リスボン攻略を絶望視したエセックス伯は苦し紛れに、馬に乗ってリスボン城門前に行くと、そこに槍を突き立てて門の向こうのスペイン軍に向かって「女王の御名において一騎討ちを申し出る。挑む勇者はいないか」と叫んだが、スペイン軍からの返事はなく相手にされなかった。 結局遠征隊は撤収することになった。帰途の6月末に商船隊を襲ってその積み荷3万ポンドを略奪し、各司令官で山分けしたが、戦果はこれだけだった。そして帰国後に遠征隊は女王から叱責された。
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