リスボン大地震と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 09:42 UTC 版)
1755年のリスボン大地震後、バイシャ・ポンバリーナの再建と同時にロシオ広場のほとんどの建物が建て直された。レアル・デ・トードス・オス・サントス病院を含むほとんどの建物が崩壊したのである。独立宮殿のみが、破滅的な地震から生き残った。ロシオ広場の再建は、18世紀半ばに建築家エウジェニオ・ドス・サントスとカルルシュ・マルデルの手で、典型的なポンバル様式にする責任が果たされた。 ポンバルの再建はバンデイラ・アーチから始まった(広場南側にある、バロック様式の切妻と、ロシオ広場とサパテイロス通りを結ぶ大きなアーチを持つ建物)。2本の真っ直ぐなアウレア通りとアウグスタ通りにより、ロシオ広場はコメルシオ広場とつながった。 1836年の大火の後、古い異端審問の宮殿は崩壊した。作家アルメイダ・ガレットの功を評し、宮殿跡地に劇場が建てられた。1840年代、イタリア人建築家フォルトゥナート・ローディの設計でネオクラシカル様式のマリア2世国立劇場が建てられた。劇場の切妻に、ポルトガル・ルネサンス期の劇作家ジル・ヴィセンテの像が建つ。皮肉なことに、ヴィセンテの劇作のいくつかは16世紀の異端審問を背景に書かれている。 19世紀、ロシオ広場は典型的なポルトガル風モザイクの石畳が施され、フランスから輸入されたブロンズ製の噴水で飾られた。ペドロ4世像の立つ円柱が据えられたのは1874年である。この時、広場の名前はペドロ4世広場とされたが市民には受け入れられなかった。 1886年から1887年、広場に別の目印が建てられた。鉄道のロシオ駅である(Estação de Caminhos de Ferro do Rossio)。駅はジョゼ・ルイス・モンテイロにより建てられ、リスボン市の重要な交通施設となった。駅は美しいネオ・マヌエリン様式のファサードを持ち、広場の北西に建つ。
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