歩兵連隊グロースドイッチュラント - フランスおよび低地諸国
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「グロースドイッチュラント師団」の記事における「歩兵連隊グロースドイッチュラント - フランスおよび低地諸国」の解説
1939年第1週、衛兵連隊はヒトラーの命により歩兵連隊グロースドイッチュラント(Infanterie Regiment Großdeutschland)と改名された。部隊は恒久的な組織とされ、他の(各地域ごとに徴兵される)陸軍連隊とは異なり、全国から兵を徴募できた。1939年6月14日、部隊は正式に発足し、ウンター・デン・リンデン通りをパレードしてそのことを示した。 1939年9月、連隊は再編成されたが、「白の場合(Fall Weiß)作戦」(ポーランド侵攻)には参加しなかった。1940年5月、連隊はハインツ・グデーリアン指揮下の第19軍団に配属された。同軍団はエヴァルト・フォン・クライストの「クライスト装甲集団」に属し、「黄の場合(Fall Gelb)作戦」(低地諸国および北部フランス侵攻)に参加した。 連隊のうち1個大隊はヘルマン・ゲーリング元帥の要求によって進撃路の背後にあるベルギー南部ウィトリー(バストーニュ南方)に空輸されることになった。 作戦初日の5月10日、連隊の主力は第10装甲師団に付与され、ベルギー南部の要塞を側面から包囲するためルクセンブルクを通過する途上で敵と交戦した。その夜に連隊は軍団予備として抽出された。第19軍団はマース川を5月13日にセダン付近で越えた。第3大隊が遠く北部ベルギーの空挺攻撃に関わっている合間に、連隊主力は第1戦車師団と併進して渡河作戦を行った。6月14日から15日にかけて連隊は第10戦車師団と共に戦線を南に押し下げることに成功し、フランス軍の反撃を封じると共に橋頭堡を完全に確立した。グデーリアンは西への進撃を第1・第2戦車師団のみを伴って再開し、連隊は第10戦車師団と一時後続の第14軍団に移管され、橋頭堡を守った。やがて第29自動車化歩兵師団が加わり、グデーリアンの第19軍団とラインハルトの第41軍団の先鋒部隊(第6戦車師団)からなる突破部隊の南翼を守った。5月17日になると第10戦車師団と連隊は同地の守備を後続部隊に引継ぎ、5月17日には再び第19軍団の指揮下に入った。だが連隊は度々クライスト装甲集団の予備として抽出された。ストンヌ付近で連隊はフランス機甲部隊と激戦になり、彼らは善戦した。 連隊はダンケルクへ向けて北へ進軍したとき、アラスでイギリス軍の反撃を受けた。その後、再び第19軍団に配属され、新規に同軍団に配属されたSS歩兵連隊アドルフ・ヒトラーと共に第2戦車師団に付与され、ダンケルク包囲戦に参加した。その後、グデーリアンは新編成のグデーリアン戦車集団(第1戦車師団及び第2戦車師団と第29自動車化歩兵師団からなる第39軍団及び第41軍団が所属)と共に南東へ進してスイス国境へ向かい、連隊は第10戦車師団と共にクライスト装甲集団に所属して南西に進撃し、セーヌ川渡河攻撃の後、リヨンにいた時にフランスが降伏した。パリに立ち寄り戦勝パレードに参加した後、連隊は「アシカ作戦」の準備のために北フランスへ送られた。アシカ作戦中止が決定すると、次は「フェリックス作戦」(ジブラルタル侵攻計画)の準備のため南フランスへ送られた。
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