歩兵革命と騎兵の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 07:56 UTC 版)
何人かの中世専門家は、14世紀の早い段階で起こった歩兵革命という概念について詳しく述べている。いくつかの関連する戦い、金拍車の戦い (1302年)、バノックバーンの戦い (1314年)またはハルミロスの戦い(英語版) (1311年)などで、重騎兵は歩兵に敗れている 。しかしながら、これらすべての戦闘は、騎兵が敗北した14世紀と15世紀の他の戦闘と同様に、騎兵には適さない荒れた地形において、歩兵が塹壕を張ったり配置されたりしたことが指摘できる。実際、それ以前でも同様の状況、たとえば1176年レニャーノの戦いでは歩兵が勝利を収めていた。しかし、たとえばパテーの戦い(1429年)やフォルミニーの戦い(1450年)で示されているように、開豁地は歩兵にとっては依然として最悪で、強力なイングランドの長弓兵すら簡単に騎兵に蹂躙された。しかし、金拍車やバノックバーンのような戦闘の経験は、無敵の騎士の神話が消えたことを意味し、それ自体が中世の戦争を変えるために重要だった。 キャリーが命名したように、より多くの実体が「重歩兵の復活」を支持する。長槍兵は、他の歩兵とは異なり、重騎兵に平地で対抗することができた。訓練と規律を必要とするが、それでも訓練の必要度でいえば射手や騎士よりもはるかに低かった。重装甲の騎士から歩兵への切り替えにより、軍隊をより早く訓練できるようになり、より大量に雇えるようになったため、15世紀後半から軍の規模を拡大することが可能になった。しかし、その変化はゆっくりしたものだった。 15世紀に人と馬の両方にプレートアーマーが完成され、より重い槍(ランス)を固定できる装具(ランスレスト(英語版)が導入されたことで、重騎兵は恐るべき戦力であり続けた。騎兵なしでは、15世紀の軍隊が戦場で決定的な勝利を収める見込みはなかった。戦闘の勝敗は弓兵あるいは槍兵によって決まるかもしれないが、(決定的な成果が得られるはずの)退却後の追撃戦は、(退却側の騎兵によって)効果的に遮断されるか、追撃側の騎兵によって実施されるかだった。16世紀には、より軽量で安価なプロの騎兵が登場し、陸軍の騎兵の割合は実際には増加し続けた。その結果、30年戦争の最後の戦いでは、封建時代の比率と比較すると、歩兵でなく騎兵が増えていた。
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