戦後の生活とキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:46 UTC 版)
「ココ・シャネル」の記事における「戦後の生活とキャリア」の解説
シャネルはスイスへ移った後、そこでディンクラーゲとともに数年を過ごした。パルファム・シャネルを巡るヴェルテメール兄弟との経営権争いは戦後も続いた。業界はパルファム・シャネルの経営権を巡る法的闘争を興味と若干の懸念を持って見守っていた。本係争における利害関係者たちは戦時中のシャネルとナチスの関係がもしも公に知れ渡れば、シャネルブランドの名声と地位に深刻な影響を及ぼすと認識していた。『フォーブス』誌はヴェルテメール兄弟が抱えていたジレンマを、(ピエール・ヴェルテメールにとって)「訴訟は、シャネルの戦時中の行動を明るみにし、彼女のイメージと、彼のビジネス双方を窮地に追いこみかねなかった」と要約している:223-224。 シャネルはヴェルテメールに対する訴訟のためにヴィシー政権の首相ピエール・ラヴァルの義理の息子、ルネ・ド・シャンブラン(英語版)を弁護士として雇った。結局、ヴェルテメールとシャネルは1924年の元々の契約について再交渉し、互いに和解した。1947年5月17日、シャネルは戦時中のシャネルNo.5の販売利益(21世紀の通貨換算でおよそ9億ドルに相当する)を受け取った。また、将来の全世界におけるシャネルNo.5の売り上げの2パーセントについて権利を得た。彼女が得た経済的利益は莫大なものであった。彼女は1年あたり2500万ドルの収入を得ていたと予想されており、当時世界で最も富裕な女性となっていた。付け加えて、ピエール・ヴェルテメールはシャネル自身が提案した特殊な条項に同意した。即ちヴェルテメールは、シャネルのその後の一生涯にわたり、彼女の生活費を―些末なものから大型出費に至るまで―全て負担することに合意した:175–77。 女性が第一のクチュリエとして君臨した戦前とは異なり、戦後はクリスチャン・ディオールが1947年に彼のニュールックで成功を収めた:263。そしてディオールの他にも、クリストバル・バレンシアガ、ロベール・ピゲ(英語版)、ジャック・ファットら優れた男性デザイナーが認められた。シャネルは、ウエストニッパー(waist cinchers)、パッド入りブラジャー(padded bras)、厚手のスカート(heavy skirts)、角張ったジャケット(stiffened jackets)といった男性のクチュリエが好む美学に対して、最終的には女性たちが反抗するであろうと確信していた:264。しかし、戦時中に活動を停止し、さらに対独協力の過去のために表立った行動がとりづらかったシャネルはファッションに影響を与えられる状況になかった:264。 1953年、彼女はコート・ダジュールの邸宅ラ・パウザ(La Pausa)を出版業者かつ翻訳家のエメリー・リーブズ(英語版)に売却した。ラ・パウザの5部屋がダラス美術館に再現され、リーブズの美術コレクション及びシャネルの家具が収められている。 70歳を過ぎた時、彼女はファッション界に復帰した:275:299。シャネルが復帰を決断した1954年には、既に彼女がファッションの表舞台を引いてから15年もの時間がたっていた。流行に敏感な人々の中にシャネルの名前を記憶している人は少なく、2月5日に新作の発表とともに新たに店を開いた時、そこに集まったのは年配ばかりで若い女性はほとんどいなかった:279。女性たちにディオールが大流行する中:279、彼女の発表について書いた『オーロール』誌は「それはすっかり過去のものだ。われわれは、十四年の沈黙のあとに、ほとんど当時そのままをよみがえらせたものを見るように招かれたのである...」と評した:306。 シャネルのコレクションは「このドレスは一九三八年ですらない、一九三〇年のドレスの亡霊だ:310」と酷評され、全く相手にされなかった:281:312。苦境のシャネルを支えたのはパルファム・シャネルを巡って争っていた長年の敵であったピエール・ヴェルテメールであった:281。彼は気落ちするシャネルを励まし、全面的な資金提供を行った:176-77:282。実際にはシャネルの復権にそう長い時間は必要とされなかった。フランスのメディアが戦時中の彼女のドイツ軍への協力活動及び愛人生活、並びにコレクションについての論争の故に取り扱いに慎重であった一方で、アメリカとイギリスのメディアはをそれをファッションと若者を新しい方法で結びつける「ブレークスルー」だとみなした。発表時フランスで酷評されたドレスは1年後にはアメリカで爆発的な人気を得ていた:283。 アメリカの『ヴォーグ』誌の影響力ある編集者ベッティーナ・バラード(Bettina Ballard)はシャネルに忠実であり続け、1954年3月に「1950年代のシャネルの顔(the "face of Chanel" in the 1950s)」であるモデル、マリー・エレーヌ・アルノー(英語版)の特集を組んだ、撮影者はヘンリー・クラーク(英語版):270で、アルノーは真珠のネックレスを組み合わせた赤いVネックのドレス、層状のシアサッカーのイブニング・ガウン、ネイビージャージのミッドカーフ・スーツの3点の服を身に着けた。アルノーが着たこれらの服は、「軽くパッドを入れた、スクエアショルダーのカーディガンジャケット、2つのパッチポケット、ボタンを外して折り返すと、パリッとした白い袖口が際立つスリーブ」、「立ち上がりのある襟と蝶型リボンの付いた白いモスリンのブラウス、ブラウスに付いた小さいタブでウエストのボタンに留めることのできる、ゆったりしたAラインスカート」が特徴であった:151。バラードはこの「若々しい優雅さと無邪気さを強く印象付ける」スーツを自費で購入した。そしてアルノーがモデルを担当した衣装にはすぐに全米から注文が殺到した:273。『ライフ』誌は復帰後3回目のコレクションの際には、シャネルの復帰を「...彼女は七十一歳にしてモード以上のものをもたらした。それはもはや革命である」と評し、各国語版全てに四ページを割いてシャネルを紹介した:284:318。 以降、シャネルはその死に至るまでファッション界に君臨することになる:286。
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