戦後の無季俳句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 01:01 UTC 版)
戦後になると俳文学者の潁原退蔵らによって無季俳句の学問的裏づけがなされ、俳句が季語を要するという考えが連歌の約束ごとに由来するもので、俳句形式にとって本来必須の要件ではないといったことが説かれた。実作においては初期には富澤赤黄男らを中心とした「太陽系」「薔薇」などで展開されたが、無季俳句の議論が深まるのは昭和30年代の前衛俳句運動においてである。もともと社会性俳句の流れの中にいた金子兜太は、「創る自分」と呼ぶ主体意識を明確にしながら暗喩的なイメージを獲得することを説き、現代社会に生きる人間の表現を目指した。一方富澤を師とする高柳重信は、多行俳句の実践などによって言語芸術としての俳句表現を志向した。前衛俳句運動はこの二者を中心として展開し、内面意識の表現や新たな詩的感覚を目指す中で折々に無季俳句が作られていった。金子兜太を中心とする流れの中には堀葦男、林田紀音夫、島津亮、八木三日女などの俳人がおり、高柳重信に近い立場の俳人には他に赤尾兜子、加藤郁乎などがいた。 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒 堀葦男鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫まなこ荒れ/たちまち/朝の/終りかな 高柳重信戦どこかに深夜水のむ嬰児立つ 赤尾兜子雨季来りなむ斧一振りの再会 加藤郁乎 前衛俳句運動は難解化・抽象化に対する批判、前衛俳人同士の対立が起こったこともあり、やがて俳壇に起こった伝統回帰の流れの中で収束していった。その後の1989年、金子兜太編による『現代俳句歳時記』に「無季・ジュニア」の部が作られ、また高柳重信を師とする夏石番矢は、季語による俳句に替わるものとして「キーワード俳句」を提唱、1996年に『現代俳句キーワード辞典』を編んだが、前衛俳句運動以降は無季俳句をめぐる大きな動きは起こっていない。宇多喜代子は1997年「ただ今の無季俳句」という文章で、かつて有季俳句と無季俳句との間にあった二項対立的な関係が現代の俳句では薄れていると指摘した。またその一方で現代の生活の中で伝統的な季語に対する実感が薄れて季語が虚構化しているとし、そのような虚構化された季語で作られた俳句はもはや無季俳句なのではないか、と述べた。坪内稔典は同年の論考「季節と俳句」で、今日の無季俳句は季語が洗練されていくことへの一種の警鐘として意味がありそうだと書いている。 以下、昭和末期以降の無季俳句を現代の作例として挙げる。 雨の朝のたましいにパセリを添えよ 池田澄子魚くさい路地の日だまり母縮む 坪内稔典階段を濡らして昼が来ていたり 攝津幸彦山嶺に弓なりの木木 栄光(ぐらうりや)! 夏石番矢皿皿皿皿皿皿血皿皿皿 関悦史歳時記は要らない目も手も無しで書け 御中虫投函のたびにポストへ光入る 山口優夢立小便も虹となりけりマルキーズ マブソン青眼
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