戦後の準急列車
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戦後1946年(昭和21年)11月、上野駅 - 金沢駅間と上野駅 - 秋田駅間に再び「準急」と名乗る列車が登場した。「急行」として運転するには設備・車両が不十分であるという理由から設定され、この時から「準急料金」というものが定められて「優等列車」となった。しかし当時は運転事情が安定せず、翌1947年(昭和22年)の1月から6月にかけて石炭・車両事情の悪化から一時消滅し、6月から再び中央本線、日豊本線、山陰本線、予讃本線、土讃本線などに設定されている。 その後は比較的近距離(300km未満)の区間に設定され、急行列車の補助としての役割を果たしていくが、昭和30年代には次のような急行を凌ぐ列車も設定されている。 かすが (関西本線)名古屋駅 - 湊町駅間運転。1949年(昭和24年)9月に関西本線には3往復の準急列車が設定されるが、その内1往復が1955年(昭和30年)7月に日本初の気動車列車での運用となり、キハ17系気動車の初の2台機関搭載車キハ50形式2両とキハ17形式とキロハ18形式各1両の4両編成による準急列車となる。翌年7月にはキハ17系の2機関搭載車の量産形式のキハ51形式が入線し、キハ17形式とキロハ18形式の転入で、すべての準急列車が気動車に置き換わった。それにより余剰車となるキハ50形式は沼津機関区に転属して、御殿場線での使用となる。1956年(昭和31年)11月当時は、東海道本線の特急が名古屋駅 - 大阪駅間を2時間30分 - 35分、急行が3時間 - 3時間15分で走る中、2時間47分 - 3時間で走破していた。当時は近畿日本鉄道(近鉄)も大阪線と名古屋線の軌間相違から伊勢中川駅での乗り換えを要したため、名阪間の輸送においては最も優位に立っていた。1958年(昭和33年)11月に「かすが」と命名されている。1966年(昭和41年)3月、急行列車に昇格(近鉄と競合する国鉄・JR線の優等列車も参照)。 日光 (東北本線、日光線)上野駅 - 日光駅間運転。1956年(昭和31年)10月に、戦前同様競争状態にあった東武鉄道との対抗馬として、客車列車と同水準の設備を持ったキハ55系気動車を使用し運転を開始する。当初、上野駅 - 日光駅間を2時間で結んだ。東武鉄道の優等列車の始発が浅草駅であるのに対し、国鉄は上野駅でアクセスのよさでは格段の差があり、運賃も安かったこともあって東武鉄道に大きな痛手を負わせる事に成功する。翌1957年(昭和32年)10月には東京駅始発となり、利便が図られた。1959年(昭和34年)9月に宇都宮 - 日光間が電化されたのに伴い、「日光」は特急列車並の設備を持った157系電車に置き換えられた。1966年(昭和41年)3月、急行列車に格上げとなる(国鉄・JR日光線の優等列車も参照)。 ひかり (鹿児島本線、日豊本線、豊肥本線)博多駅・門司港駅 - 小倉駅 - 大分駅 - 熊本駅間運転。1958年(昭和33年)4月、博多駅 - 小倉駅 - 別府駅間に気動車(キハ55形)の臨時急行列車として設定。同年8月に運転区間を前述のように拡大した上、定期の準急列車となる。準急といっても気動車であるから、例えば小倉駅 - 大分駅間では「サン・ロク・トオ」と呼ばれた1961年(昭和36年)10月改正当時、急行列車「日向」・「高千穂」などが同区間を約2時間50分で運転していたのに対して、「ひかり」は2時間9分で走破し俊足を見せ付けた。1962年(昭和37年)10月に急行に格上げとなる。この2年後、「ひかり」の愛称名も東海道新幹線の速達列車に使われることになり、「ひまわり」・「くさせんり」へ改称されることになる。
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