戦後の混乱と復興
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戦後の1946年当時、客車の総保有数は数字の上では戦前とほぼ同数であったが、実働可能な車両は総保有数の約7割にとどまる一方、旅客輸送需要は戦時中に比べて極端に増大し、また進駐軍に状態のよい客車を優先的に接収されるなどして(進駐軍用の多様な車両のカテゴリーとしては軍務車が臨時に設けられた)、客車の著しい不足を生じた。そこで、戦災を受けた客車・電車の台車・台枠・鋼体を再利用、車体のみを新製、あるいは車体も生かしつつ改造し、旅客輸送の用に供することが考えられた。この手法により製造された車両を戦災復旧車という。区別のため形式は70番台の番号を付されていたことから便宜上70系客車とも呼ばれる。 詳細は「国鉄70系客車」を参照 第二次世界大戦後でもまだ国鉄保有客車数の約6割が木造客車であり、ローカル線の普通列車では木造客車が当たり前の状況であったが、製造後最低でも20年から40年程度が経過し、全体に老朽化が進行しており、早期に鋼製客車に置き換えることが強く望まれるようになった。だが当時は戦後の混乱期で短期間のうちに鋼製客車を大量に新製することはコスト的に困難とされた。また当時の鉄道運営を管轄していた進駐軍は、車両新造許可には消極的であった。 これらの課題の対策として、木造車の改造名目で安価に鋼製客車を製造する「鋼体化」と呼ばれる手法が取り上げられた(戦前のオハ31などの計画は「鋼製化」なので注意)。木造客車の台枠や台車、連結器などを再利用し、鋼製の車体のみを新製するもので、1949年から鋼体化改造に着手することになった。鋼体化改造の場合、客車の製造費用を従来の半分程度に抑えることができるとともに、安全対策を主眼とした既存車両改造名目のため、車両新造に関わる制約を受けずに済んだ。 これらの鋼体化客車は他の制式鋼製客車などとの区別のために60番台の形式を付されており、便宜上、60系客車と呼ばれるようになった。 詳細は「国鉄60系客車」を参照 なおこれに伴い、1955年度末までに、国鉄では旅客営業用の木造客車は消滅した。 国鉄では1951年から急行列車への使用を主体とした車両としてスハ43系客車が製造された。オハ35系の改良版として設計され、在来形の客車に比して居住性を大幅に改善した画期的な客車であった。投入当初は急行列車などの優等列車で使用された。 オハ60形(1949年)で採用された完全切妻形車体(連結面に後退角がない車体、所謂食パン客車)を採用して、客室の有効面積が拡がり、座席間隔が多少広くなった他、製造上もコストダウンにつながっている。 台車は新形台車のTR47が採用された。これは、スハ42形客車で採用されたウイングばね式鋳鋼台車であるTR40の設計を基本としつつ、乗り心地の改善を図ったものである。 優等客車は、戦前以来3軸ボギー台車とするのが常識とされていた。しかし冷房装置などの追加に伴って床下機器搭載スペースの不足が問題となりつつあったため、TR40での成果を受けて見直しがなされ、新造される優等客車は3軸ボギー台車を止めて通常の2軸ボギー式台車を使用することとされた。 三等客車の接客設備も43系では著しい改善が見られた。車内照明は従来天井中央に1列であったが、43系では2列配置とした。座席は背ずりの下半分の詰め物が厚くなるとともに、スプリングも軟らかくされ、座り心地が良くなった。また、座席の通路側には固定式の頭もたせが付けられた。なお私鉄における客車新製が稀になったこの時代、43系をベースとして造られたものとして南海サハ4801形客車がある。 詳細は「国鉄スハ43系客車」を参照 1953年には、1941年の改正が早くも行き詰まりをみせたため、客車全般について称号規程の改正が行われ、形式の変更が行われた。
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