戦後の混乱と駿遠線全通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:35 UTC 版)
「静岡鉄道駿遠線」の記事における「戦後の混乱と駿遠線全通」の解説
終戦後、藤相線、中遠線沿線には都市部からの買い出し客が殺到した。元々農業・漁業とも盛んな地域のため、食糧は豊かであり、買い出し先として絶好だった。このため戦前の苦境が嘘のように、両線とも超満員が続いた。空襲の被害を受けなかったことから、車輌は確保されていたが、それでも客車・気動車を総動員しての車両不足状態だった。ただこの時期には激増する旅客輸送に対処することに精一杯で、売上を路線に対して投資できなかった。改軌や大井川橋梁の架け替えなど、懸案事項の着手に至らなかったことは、後の駿遠線の消長に大きく影響することになる。 この頃から両線を結ぶ構想が持ち上がった。形を変えた「駿遠鉄道」の実現である。両線とも軽便鉄道であって規格もそう違わず、戦争中軍が用いていた線路が同地帯にあったことから話は進み、区間開業を経て1948年に両線は結ばれ、新たに「駿遠線」と呼ばれることになった。なお旧・藤相鉄道は、1925年(大正14年)に大手から北東へ伸びて駿河岡部(現・藤枝市岡部町)に達する延長を行ったが、同区間は11年間運行しただけで戦時合併前に廃止されているため、駿河岡部 - 大手と大手 - 新藤枝 - 地頭方 - 新袋井は、同時には存在していない。
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