戦後の演習林とは? わかりやすく解説

戦後の演習林(第3期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 04:22 UTC 版)

京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林」の記事における「戦後の演習林(第3期)」の解説

大学本体終戦後1947年京都帝国大学から京都大学改称され1949年には学制改革実施して新制大学改組されたが、演習林体制大きな変化はなかった。一方で戦時中から続く演習林荒廃戦後改善されることはなく、それに追い討ちをかけるように3度台風被害見舞われることとなった1949年7月ヘスター台風では演習林事務所で総雨量が519mm、東部三国岳では推定600mmを超える記録的な大雨見舞われ演習林事務所を除く建物大半破損した流失したほか、戦時中開通した小野子東谷への森林軌道全線流出埋没するという大きな被害受けた。翌1950年9月にはジェーン台風来襲室戸台風並み暴風もたらしたことから、風倒木被害多発した。それから間もない1953年9月には台風13号来襲、この台風では演習林事務所で総雨量361mmとヘスター台風時には及ばなかったものの、ヘスタージェーンの両台風弱っていた山林止めを刺す結果となり、土砂災害などの被害を受けることとなった演習林にとっては大きな試練となった災害であるが、その復旧工事とともに施設林道建設推進されていった1950年には森林軌道野田谷まで延伸されたほか、水力発電所建設して電力の供給開始1952年には地元住民への給電開始した1961年には関西電力による電気供給開始されたが、このとき電気の来なかった灰野は住民全員離村最後まで残った山番姿を消してしまった。林道整備は内杉谷から下谷経て長治谷に抜ける内杉林道を中心に進められ1952年落合橋まで開設されたのを皮切りに1954年に幽仙まで延伸その後ケヤキ坂越えて工事進められ1970年長治作業所到達したこの他にも落合橋で内杉林道から分岐して倉谷詰め倉林道が1955年開設され1972年には長治作業所から地蔵峠越えて朽木村抜ける峰越林道開設されたほか、1980年代にかけて内杉林道中央部のケヤキ峠を中心に、北は杉尾直下通じ、南はブナノ木峠の南に達す林道開設された。 林道整備伐採面積拡大を招くこととなった本格的な林道整備始まった1952年以降から伐採面積急激に拡大1955年からは大面積の立木直接売買開始された。大規模伐採1950年代後半1960年代中盤2度ピーク迎えているが、1950年代ピーク木材好況期にあたり材木相場高値推移していたことが大きく1960年代中期ピークは、1962年当初借地契約による分収金の効力発生し、その支払い充当するために大規模伐採進めていたことが大きい。その一方で天然更新人工造林双方とも演習林開設当初から進められてはいたものの、伐採面積拡大追いつくものではなく植林され価値天然木比べると低いものであったことから、トチケヤキなどの天然林次々と伐採されていったその後造林面積拡大遅々として進まず植林され材木価値の向上もはかばかしくなかった加えて外材輸入拡大に伴う国内材の価格低迷重なったことから、伐採面積をさらに拡大して利益確保を図るという悪循環に陥ってしまい、演習林更なる荒廃を招く結果となったまた、1961年以降伐採搬出なども含めた造林をはじめ、苗圃製材林道工事などの分野演習林での直接経営拡大して研究面では大きな成果を挙げることができたが、大学側一般経常費による補填少なかったことから無理な経営を行わざるを得なくなった。そこに前述木材価格低迷重なったことから、演習林経営圧迫してしまい、直営方式においても全面伐採から造林繰り返すという悪循環から逃れられなくなってしまった。この間1966年には折からエネルギー革命大学闘争影響もあって、長らく続けられてきた製炭事業廃止されている。 こうした大規模伐採による演習林荒廃が進むにつれて大学関係者だけでなく地権者の側においても危惧と不安の声が上がるようになったまた、木材価格低迷長期化するにつれて大規模伐採このまま続けても分収金の形で地域還元することが困難になってきていた。こうしたことから地権者への使用料支払い方法も、従来の分収金方式から借地料支払い転換することが検討されその場合の財源としては、大学一般財源予算化することが望まれるようになった1974年以降から国会の場においても議論重ねられ1981年からは借地料方式導入されることとなったこのような動き前後して1970年以降直営方式による演習林経営規模縮小されたほか、1975年以降伐採面積大幅に減少していったことから、1970年代後半から1980年代初めにかけて、演習林利用形態も再び研究主体したもの変わっていった。 高度経済成長期産業構造の変化と、外材輸入に伴う木材価格低迷林業衰退過疎化招いた演習林がある美山町旧知井村)もまた例外ではなく林業製炭といった主力産業が年とともに衰退していったほか、京阪神都市圏近接していたことから青壮年層を中心に人口流出続き過疎化進展していった。一方京阪神都市圏では経済成長人口増に伴って電力需要増加関西電力では木曽川流域黒部川第四発電所および黒部ダムといった黒部川流域での電源開発都市臨海地域における火力発電所整備進めていたが、原子力発電にも着目して若狭湾周辺原子力発電所建設積極的に行っていた。それでもピーク時には電力不足が予想されたことから、夜間の余剰電力有効活用を図ることができる揚水発電組み合わせて電力需要増加対応することが計画され1965年ごろには、名田庄村にこの揚水発電所下部ダムの建設が、併せて上部ダムの建設演習林内の下谷計画されそれぞれの計画案関西電力から関係者に対して提示された。こうした動き受けて地権者である九ヶ字財産区から演習林全部ないしは下谷周辺一部返還要求出されダム湖生かした観光振興計画立てられたが、その一方でダムの建設大規模な自然破壊を伴うとして、反対運動盛んに行われた。このダムの建設計画は、戦後の演習林の最大問題として、大学関係者地権者行政関西電力住民巻き込んで長年にわたり賛否両論立場から議論が行われた。最終的にこの揚水発電計画地元などの理解得られないことから関西電力はこれを断念した

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