戦後の演習林(第3期)
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「京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林」の記事における「戦後の演習林(第3期)」の解説
大学本体は終戦後の1947年に京都帝国大学から京都大学に改称され、1949年には学制改革を実施して新制大学に改組されたが、演習林の体制に大きな変化はなかった。一方で戦時中から続く演習林の荒廃は戦後も改善されることはなく、それに追い討ちをかけるように3度の台風被害に見舞われることとなった。1949年7月のヘスター台風では演習林事務所で総雨量が519mm、東部の三国岳では推定600mmを超える記録的な大雨に見舞われ、演習林事務所を除く建物の大半が破損したり流失したほか、戦時中に開通した小野子東谷への森林軌道は全線流出・埋没するという大きな被害を受けた。翌1950年9月にはジェーン台風が来襲、室戸台風並みの暴風をもたらしたことから、風倒木被害が多発した。それから間もない1953年9月には台風13号が来襲、この台風では演習林事務所で総雨量361mmとヘスター台風の時には及ばなかったものの、ヘスター、ジェーンの両台風で弱っていた山林に止めを刺す結果となり、土砂災害などの被害を受けることとなった。 演習林にとっては大きな試練となった災害であるが、その復旧工事とともに、施設や林道の建設も推進されていった。1950年には森林軌道が野田谷まで延伸されたほか、水力発電所を建設して電力の供給を開始、1952年には地元住民への給電を開始した。1961年には関西電力による電気の供給が開始されたが、このとき電気の来なかった灰野は住民が全員離村、最後まで残った山番の村も姿を消してしまった。林道の整備は内杉谷から下谷を経て長治谷に抜ける内杉林道を中心に進められ、1952年に落合橋まで開設されたのを皮切りに、1954年に幽仙橋まで延伸、その後もケヤキ坂を越えて工事は進められて1970年に長治谷作業所に到達した。この他にも落合橋で内杉林道から分岐して櫃倉谷を詰める櫃倉林道が1955年に開設され、1972年には長治谷作業所から地蔵峠を越えて朽木村生杉に抜ける峰越林道が開設されたほか、1980年代にかけて内杉林道中央部のケヤキ峠を中心に、北は杉尾峠直下に通じ、南はブナノ木峠の南に達する林道が開設された。 林道の整備は伐採面積の拡大を招くこととなった。本格的な林道の整備が始まった1952年以降から伐採面積が急激に拡大、1955年からは大面積の立木の直接売買も開始された。大規模伐採は1950年代後半と1960年代中盤に2度のピークを迎えているが、1950年代のピークは木材好況期にあたり、材木相場が高値で推移していたことが大きく、1960年代中期のピークは、1962年に当初の借地契約による分収金の効力が発生し、その支払いに充当するために大規模伐採を進めていたことが大きい。その一方で、天然更新、人工造林の双方とも演習林の開設当初から進められてはいたものの、伐採面積の拡大に追いつくものではなく、植林された杉の価値も天然木に比べると低いものであったことから、トチやケヤキなどの天然林が次々と伐採されていった。その後も造林面積の拡大は遅々として進まず、植林された材木の価値の向上もはかばかしくなかった。加えて、外材の輸入拡大に伴う国内材の価格低迷が重なったことから、伐採面積をさらに拡大して利益の確保を図るという悪循環に陥ってしまい、演習林の更なる荒廃を招く結果となった。また、1961年以降は伐採や搬出なども含めた造林をはじめ、苗圃、製材、林道工事などの分野で演習林での直接経営を拡大して研究面では大きな成果を挙げることができたが、大学側の一般経常費による補填が少なかったことから無理な経営を行わざるを得なくなった。そこに前述の木材価格の低迷が重なったことから、演習林の経営を圧迫してしまい、直営方式においても全面伐採から造林を繰り返すという悪循環から逃れられなくなってしまった。この間の1966年には折からのエネルギー革命と大学闘争の影響もあって、長らく続けられてきた製炭事業が廃止されている。 こうした大規模伐採による演習林の荒廃が進むにつれて、大学関係者だけでなく地権者の側においても危惧と不安の声が上がるようになった。また、木材価格の低迷が長期化するにつれて、大規模伐採をこのまま続けても分収金の形で地域還元することが困難になってきていた。こうしたことから地権者への使用料支払い方法も、従来の分収金方式から借地料支払いに転換することが検討され、その場合の財源としては、大学一般財源で予算化することが望まれるようになった。1974年以降から国会の場においても議論が重ねられ、1981年からは借地料方式が導入されることとなった。このような動きに前後して、1970年以降は直営方式による演習林経営の規模が縮小されたほか、1975年以降は伐採面積が大幅に減少していったことから、1970年代後半から1980年代初めにかけて、演習林の利用形態も再び研究を主体としたものに変わっていった。 高度経済成長期の産業構造の変化と、外材輸入に伴う木材価格の低迷は林業の衰退と過疎化を招いた。演習林がある美山町(旧知井村)もまた例外ではなく、林業や製炭といった主力産業が年とともに衰退していったほか、京阪神都市圏に近接していたことから青壮年層を中心に人口の流出が続き、過疎化が進展していった。一方、京阪神都市圏では経済成長と人口増に伴って電力需要が増加、関西電力では木曽川流域や黒部川第四発電所および黒部ダムといった黒部川流域での電源開発、都市臨海地域における火力発電所の整備を進めていたが、原子力発電にも着目して、若狭湾周辺で原子力発電所の建設を積極的に行っていた。それでもピーク時には電力不足が予想されたことから、夜間の余剰電力の有効活用を図ることができる揚水発電を組み合わせて電力需要の増加に対応することが計画され、1965年ごろには、名田庄村にこの揚水発電所の下部ダムの建設が、併せて上部ダムの建設が演習林内の下谷に計画され、それぞれの計画案が関西電力から関係者に対して提示された。こうした動きを受けて地権者である九ヶ字財産区から演習林の全部ないしは下谷周辺の一部返還要求が出され、ダム湖を生かした観光振興計画も立てられたが、その一方でダムの建設は大規模な自然破壊を伴うとして、反対運動も盛んに行われた。このダムの建設計画は、戦後の演習林の最大の問題として、大学関係者や地権者、行政、関西電力、住民を巻き込んで長年にわたり賛否両論の立場から議論が行われた。最終的にこの揚水発電計画は地元などの理解が得られないことから関西電力はこれを断念した。
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