若狭湾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 03:03 UTC 版)
若狭湾(わかさわん)は、福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する日本海が深く入り込んでできた湾である。
地理
福井県北部(嶺北)西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬を結ぶ直線以南の海域を指し、2,657 km²の総面積を有している、日本列島の日本海沿岸部でも屈指の大型の湾である。
また、日本海の大陥没湾となっており、特徴的なリアス式海岸が発達している。この様な大規模なリアス式海岸は日本列島の日本海側では珍しい。
湾内には多数の支湾[注釈 1]が存在し、観光名所として日本三景の一つ天橋立、日本三大松原の一つ気比の松原を含む。その風光明媚な地形は多方面から注目され、1955年に笙の川以西の全湾岸周辺が若狭湾国定公園の大部分に、1968年には東岸周辺の一部が越前加賀海岸国定公園の一部に指定され、2007年8月3日には新たに丹後天橋立大江山国定公園が制定され[注釈 2]、一帯に3つの国定公園を有することになった。
現在では、夏季には近畿方面からの海水浴などのマリンレジャーの利用で賑わいを見せ、それ以外の季節は釣り客なども訪れる。
沿岸部の半島群
若狭湾の沿岸部には、西端の丹後半島の他にも小規模な半島が多数見られる。
西から列挙すると、栗田半島-大浦半島 - 音海半島 - 大島半島 - 内外海半島 - 常神半島 - 敦賀半島の順になっている。景勝地が多く、常神半島腹部には三方五湖、内外海(うちとみ)半島には蘇洞門(そとも)、音海半島には音海断崖がある。
島
若狭湾は東西100キロメートルにもなる巨大な湾でありながら、内包する島々の数は少なくすべてが小さな無人島であり、冠島と沓島以外はすべて本州の沿岸部に隣接している[1]。
主だった島々の一部を西側から順に挙げると、冠島・沓島、磯葛島・沖葛島・アンジャ島、高島、毛島、風島、水島(敦賀湾[2])、鷹島・稲島、葉積島、冠者島、蒼島、児島、千島、烏辺島、御神島(福井県最大の島)となる。
関連画像
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湾内には砂浜も点在する(水晶浜海水浴場)。
生態系

若狭湾は古来から豊富に海産物を産し、たとえば鳥浜貝塚からも多様な生物の残骸が発見されている。また、点在する港も古くからの良港で京都にも近いため、サバなどの魚介類の著名な水揚げ地[注釈 3]とされてきた。また、フグ(若狭ふぐ)の養殖も盛んに行われている[3]。希少種のエビスザメが発見された事例も存在する[4]。ハスやマツカサガイなど福井県のレッドデータブックの対象種も生息している[5]。ハマチやカマスなど、スキューバダイビングで人気の魚種も群れを成して現れる[1]。
湾内や沿岸部には冠島や沓島などの重要な野鳥の生息地が点在し、オオミズナギドリやカンムリウミスズメやカラスバトやヒメクロウミツバメなどの営巣地として鳥獣保護区および舞鶴市の天然記念物に指定されている[6]。また、タンチョウやコウノトリやコハクチョウやオオワシやオジロワシなどの特筆すべき大型の渡り鳥も、ラムサール条約や若狭湾国定公園に指定されている三方五湖などの湾の沿岸部や近隣に現れることもある[5][7]。
近年は環境の回復と共に少数ではあるがイルカ類を中心とした鯨類[注釈 4]、オットセイ(稀)[10]やウミガメ[注釈 5]なども湾内に現れるようになったが、かつては日本海の沿岸部には普遍的に鯨類の回遊が存在し、若狭湾一帯でも江戸時代から昭和まで伊根湾や若狭湾内などでヒゲクジラ類[注釈 6]を対象とした捕鯨が行われていた[14][15]。また、絶滅種に指定されているニホンアシカが生息していたことを示唆させる地名もいくつか残されており[16]、上述の鳥浜貝塚からもアシカ類と思わしい鰭脚類の痕跡が出土している[5]。2023年には、水晶浜海水浴場の一帯に人間を噛むミナミハンドウイルカが現れるようになって注目を集めた(水晶浜海水浴場#野生イルカの出没問題を参照)[17]。
沿岸市町村

以下の5市8町に面している。越前岬から海岸線の到来順。
港湾
大型の重要港湾として敦賀港並びに舞鶴港、そのほかの開港として内浦港並びに宮津港が各支湾内にある。地方港湾の和田港は大島半島の内側である青戸入江の部分と外側の若狭湾に直接面する部分とに分かれている。なかでも舞鶴港は海上自衛隊舞鶴地方総監部、海上保安庁第八管区海上保安本部などが設置されており、重要な国防拠点のひとつでもある。
若狭湾原子力発電所群
若狭湾沿岸には敦賀発電所に2基、美浜発電所に3基、大飯発電所に4基、高浜発電所に4基、もんじゅに1基、計14機の原子力発電所が集中している。人口密集地である大阪圏やその飲料水源である琵琶湖に近く、原発事故時の被害が危惧されている。1586年天正地震で津波が発生した記録があることが東日本大震災後の新聞報道[18]などで広く知られるようになり、懸念が高まっている[19][20]。
日本共産党京都府会議員団は、京都府に若狭湾原子力発電所群の安全対策等を速やかに求める緊急申し入れを行った[21]。
過去の地震活動
その他
- 気象庁による海洋気象の海域区分として、「山陰沖東部および若狭湾付近」というものがある[23]。この範囲は福井県・京都府・鳥取県の沖、及び兵庫県の日本海沖、島根県の隠岐諸島周辺となっている。
- 1876年(明治9年)から1881年(明治14年)にかけての4年半は、現在の福井県嶺南地方が滋賀県に編入されており、短い期間ながら滋賀県が日本海・若狭湾に面していた。
- 日露戦争当時、日本海軍はロシア海軍が本土に上陸する地点は若狭湾であると想定し、京都への侵攻を防ぐため舞鶴に鎮守府を、舞鶴から高浜町にかけての海岸沿いには砲台を備えた要塞を設置した。
- 2015年1月19日、太陽系の天体の地名に関する国際天文学連合のワーキンググループによって、土星の第6衛星タイタンの入り江 (Sinus) の一つが、若狭湾に因んで「ワカサ入江[注釈 7]」と命名された[24]。
脚注
注釈
- ^ 敦賀湾、世久見湾、小浜湾、矢代湾、内浦湾、舞鶴湾、宮津湾など。
- ^ 若狭湾国定公園における由良川以西の部分が分離独立し、大江山なども加えられた。
- ^ いわゆる「鯖街道」。
- ^ 主にハンドウイルカやカマイルカが大部分であり、他にはミンククジラなども時折見られる[8]。近年は、冠島や天橋立の周辺でもイルカ類が見られたり[1]、海水温の上昇に伴ってミナミハンドウイルカが外部から移住し定着した可能性も示唆されている[9]。
- ^ 主にアオウミガメとアカウミガメ。丹後地方は「浦島太郎」伝説でも知られる[11][12]。
- ^ セミクジラ、ザトウクジラ、ナガスクジラ、ミンククジラが捕獲されてきた他にも、コククジラも回遊していた可能性が高い[13]。
- ^ 「Wakasa Sinus」
出典
- ^ a b c 若狭ダイビングサービス, 冠島のご紹介とご利用案内 - ようこそ! 冠島へ
- ^ 敦賀観光協会, 敦賀市色浜観光情報, 5分で知る 無人島 水島
- ^ “福井県認定「若狭ふぐ」の宿”. 福井県農林水産部水産課. 2023年12月4日閲覧。
- ^ “にっこり優しい、海の珍客 若狭町 希少エビスザメ捕獲 県海浜自然センターで展示”. 若狭湾観光連盟 (2023年3月13日). 2023年12月4日閲覧。
- ^ a b c 松村俊幸 (2005年12月20日). “三方五湖は語る”. 福井県自然保護センター, 福井県海浜自然センター, 福井県. ナチュラリスト第46号. pp. 10-11. 2023年12月4日閲覧。
- ^ “JP118 冠島・沓島”. 日本野鳥の会. 2023年12月4日閲覧。
- ^ 環境省, 若狭湾国定公園(福井県地域)指定書及び公園計画書(環境省案), (ウ)史跡名勝天然記念物, 8頁
- ^ 熊木豊 (2007年12月12日). “丹後の海の生き物(ミンククジラ)”. 京都府農林水産技術センター 海洋センター, 京都府. 京都新聞. 2023年12月4日閲覧。
- ^ “イルカ、京都「定住」の可能性 日本海では珍しい種類、宮津湾や伊根湾に”. 京都新聞 (2020年8月27日). 2023年12月4日閲覧。
- ^ 広報わかさ
- ^ “特集:ウミガメ”. 福井県自然保護センター, 福井県海浜自然センター, 福井県. ナチュラリスト第58号 (2010年1月20日). 2023年12月4日閲覧。
- ^ 熊木豊 (2006年12月6日). “丹後の海の生き物(ウミガメ)”. 京都府農林水産技術センター 海洋センター, 京都府. 京都新聞. 2023年12月4日閲覧。
- ^ 南部久男、石川創、山田格「アジア系コククジラの記録―その分布と回遊―」『日本セトロジー研究』第20巻、日本セトロジー研究会、2010年、21-29頁、doi:10.5181/cetology.0.20_21。
- ^ 石川創, 2019年, 『日本の小型捕鯨業の歴史と現状』, 岸上伸啓編『世界の捕鯨文化―現状・歴史・地域性』, 国立民族学博物館調査報告第149号, 129-152頁, 国立民族学博物館
- ^ 東幸代, 2017年, 『近世の鯨と幕藩領主 : 丹後伊根浦の捕鯨を手がかりとして』, 史林, 100 (1), 74-105頁, 京都大学大学院
- ^ 中村一恵「三浦半島沿岸に生息していたニホンアシカについて」(PDF)『神奈川県立博物館研究報告. 自然科学』第22号、神奈川県立生命の星・地球博物館、1993年1月、81-89頁、CRID 1520853833567161472、 ISSN 04531906、2024年6月28日閲覧。
- ^ “イルカが海水浴客に突進 男性「腕をかまれた」16日には4人重軽傷 福井・美浜町の水晶浜海水浴場 | TBS NEWS DIG (1ページ)”. TBS NEWS DIG (2023年7月17日). 2024年7月5日閲覧。
- ^ 「「防災の日」に考える “想定外”と決別する」東京新聞2011年9月1日付朝刊社説。
- ^ 原子力安全・保安院 (PDF) 若狭湾沿岸における 天正地震による津波について
- ^ 原子力安全・保安院 (PDF) 若狭湾沿岸における天正地震による津波堆積物調査について
- ^ 若狭湾原発群の安全対策を速やかにせよ 共産党京都府議団 京都民報 2011年4月15日 18:13
- ^ 小松原琢, 水野清秀, 金田平太郎, 須藤宗孝, 山根博(1999): 史料による1662年寛文地震時の三方五湖周辺における地殻変動の復元,歴史地震, No.15, pp81-100.
- ^ “海上警報 - 山陰沖東部及び若狭湾付近”. お天気ナビゲータ. 日本気象株式会社. 2023年12月4日閲覧。
- ^ “Planetary Names”. 国際天文学連合 (2015年1月19日). 2015年2月2日閲覧。
関連項目
外部リンク
座標: 北緯35度43分17.1秒 東経135度39分36.6秒 / 北緯35.721417度 東経135.660167度
若狭湾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 09:44 UTC 版)
『兼見卿記』には丹後、若狭、越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾沿岸の町で山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある。他にジアン・クラッセ『日本教会史』(1689年。明治時代に翻訳されて『日本西教史』)や『豊鏡』(竹中重治の子の竹中重門著。江戸時代。豊臣秀吉の一代記)、『舜旧記』、『顕如上人貝塚御座所日記』、『イエズス会日本書翰集』などにも、詳しい記述がある。 2011年(平成23年)12月に原子力安全保安院は、敦賀原発の安全性審査のための津波堆積物と文献調査報告を発表した。それによると「仮に天正地震による津波があったとしても、久々子湖に海水が流入した程度の小規模な津波であったものと考えられる。なお、事業者においては念のための調査を今後とも行っていくことが望ましいと考えられる。」としている。2012年12月、再調査結果として大きな津波の跡は見つからなかったとしている。 2015年(平成27年)5月、山本博文らは福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表した。 フロイス『日本史』(5、第60章、第2部77章) ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。 その後40日間一日とて震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛もよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。 若狭の国には、海に沿ってやはりナガハマと称する別の大きい町があった。揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が遠くから恐るべきうなりを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。 (高)潮が引き返すときには、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑み込まれてしまった。 「やはりナガハマと称する別の大きい町」というのは、前の文章に「長浜城下で大地が割れた」と書いてあり、区別するためである。長浜城については「関白殿が信長に仕えていた頃に居住していた長浜と言うところ」という説明もあり、これは1574年(天正2年)に秀吉が築城を開始した琵琶湖東岸の長浜市にある長浜城を指し、若狭湾のナガハマとは別であることを明確に書いている。ナガハマは現在の福井県高浜町のことである。 吉田兼見『兼見卿記』 廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユ(ア)リ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事数不知云々、江州・勢州以外人死云々 丹後・若州(若狭)・越州(越前)沿岸を津波が襲い、家々はすべて押し流され、死者は無数であった。 『舜旧記』(十一月二十九日条) 近国之浦浜々屋,皆波ニ溢レテ,数多人死也,其後日々ニ動コト,十二日間々也 クラッセ『日本教会史』(1689年) 若狭の国内貿易の為に屢々(しばしば)交通する海境に小市街あり。此処は数日の間烈しく震動し、之に継ぐに海嘯(かいしょう、津波)を以てし、激浪の為に地上の人家は皆な一掃して海中に流入し、恰も(あたかも)元来無人の境の如く全市を乾浄したり これには津波が若狭湾を襲ったのは、旧暦11月29日ではなく、その後の連動地震(または誘発地震)による津波であったとしている。 『イエズス会日本書翰集』 若狭の国には海の近くに大変大きな別の町があって町全体が恐ろしいことに山と思われるほど大きな波浪に覆われてしまった。そして、その引き際に家屋も男女もさらっていってしまい、塩水の泡に覆われた土地以外には何も残らず、全員が海中で溺死した。 理學博士大森房吉 「日本ノ大地震二就キテ」 理學博士大森房吉 『震災予防調査会報告』32号、 p57-58 天正十三年十一月二十九曰(西暦千五百八十六年一月十八日) 山城、大和、河内、和泉、攝津、讃岐、淡路、伊賀、伊勢、尾張、三河、美濃、遠江、飛彈、越前、若狹、加賀大地震」沿海ニ津浪アリ
※この「若狭湾」の解説は、「天正地震」の解説の一部です。
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