若狭武田氏や大内氏からの独立
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「武田元繁」の記事における「若狭武田氏や大内氏からの独立」の解説
永正5年(1508年)、大内義興は足利義材を奉じて上洛軍を起こし、元繁もこれに従い上洛した。一方、在京していた若狭武田氏当主武田元信は、足利義澄との密接な関係を維持した。これ以後、安芸武田氏は若狭武田氏から完全に独立することとなった。上洛した義興は、足利義材改め足利義稙を将軍職に復帰させると、自身も管領代として京都に留まった。元繁もこれに従い駐留を続けていたが、大内氏当主と主力が不在の安芸国では、厳島神主家で後継者を巡って内訌が発生していた。 永正12年(1515年)、義興は鎮圧のため元繁を帰国させることとした。このとき義興は、元繁が大内方から離反しないようにと、養女としていた権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁に嫁がせている。しかし、元繁は帰国後すぐに妻を離縁し、尼子経久の弟・久幸の娘を妻として出雲尼子氏の支援を背景に大内氏を離反。東西に分裂して対立していた厳島神主家の東方につく。そして、西方(周防国に近く大内方の勢力であった)であった佐西郡大野河内城を攻めたところ、城兵が逃亡したために元繁が取得した。安芸国内での勢力拡大を図る元繁は、さらに己斐城を攻める。この元繁の動きに対して義興は、毛利興元・吉川元経に己斐城救援を命じ、毛利・吉川軍は山県郡の有田城を攻略する。山県郡は武田方である山県氏の一族(壬生氏・有田氏・今田氏)の領地であり、有田城が落とされたことで元繁は己斐城の包囲を解く。元繁は、軍勢を転じて山県郡に向かうが、有田城を奪還することはかなわなかった。これにより、元繁は大内方の毛利・吉川勢と対立することになった。
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