若狭武田氏や大内氏からの独立とは? わかりやすく解説

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若狭武田氏や大内氏からの独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:28 UTC 版)

武田元繁」の記事における「若狭武田氏や大内氏からの独立」の解説

永正5年1508年)、大内義興足利義材奉じて上洛軍を起こし、元繁もこれに従い上洛した。一方在京していた若狭武田氏当主武田元信は、足利義澄との密接な関係を維持した。これ以後安芸武田氏若狭武田氏から完全に独立することとなった上洛した義興は、足利義材改め足利義稙将軍職復帰させると、自身管領代として京都に留まった。元繁もこれに従い駐留続けていたが、大内氏当主主力不在安芸国では、厳島神主家後継者巡って内訌発生していた。 永正12年1515年)、義興は鎮圧のため元繁を帰国させることとした。このとき義興は、元繁が大内方から離反しないようにと、養女としていた権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁に嫁がせている。しかし、元繁は帰国後すぐに妻を離縁し尼子経久の弟・久幸の娘を妻として出雲尼子氏支援背景大内氏離反東西分裂して対立していた厳島神主家東方につく。そして、西方周防国近く大内方勢力であったであった佐西郡大野河内城を攻めたところ、城兵逃亡したために元繁が取得した安芸国内での勢力拡大を図る元繁は、さらに己斐城攻める。この元繁の動きに対して義興は、毛利興元吉川元経己斐城救援命じ毛利吉川軍は山県郡有田城を攻略する山県郡武田方である山県氏一族壬生氏有田氏・今田氏)の領地であり、有田城が落とされたことで元繁は己斐城包囲を解く。元繁は、軍勢転じて山県郡に向かうが、有田城を奪還することはかなわなかった。これにより、元繁は大内方毛利吉川勢と対立することになった

※この「若狭武田氏や大内氏からの独立」の解説は、「武田元繁」の解説の一部です。
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