震源
震源域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 09:44 UTC 版)
近畿から東海、北陸にかけての広い範囲、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県、三重県(越中、加賀、越前、飛騨、美濃、尾張、伊勢、近江、若狭、山城、大和)に相当する地域にまたがって甚大な被害を及ぼしたと伝えられる。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の濃尾地震(M8.0-8.4)をも上回る広大なものであった。そのことなどからこの地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。しかし、ひとつの地震として複数の断層が連動して活動したのか、数分から数十時間をかけて活動したのかは議論が分かれている。
※この「震源域」の解説は、「天正地震」の解説の一部です。
「震源域」を含む「天正地震」の記事については、「天正地震」の概要を参照ください。
震源域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 20:25 UTC 版)
河角廣(1951)は牡鹿半島沖(北緯38.3°、東経142.4°)を震央と考えマグニチュード M = 7.1を与えていた が、羽鳥徳太郎(1976,1987)は、今村明恒(1899)の推定した1897年2月20日の地震の震度分布 に類似しているとして、波源域が1897年の地震とほぼ同じか北よりであるとし、200 km×80kmの波源域、規模はM7.8と推定した。 宇佐美龍夫(2003)は、津波が相馬、いわきで引き波で始まったことから1896年の明治三陸地震にも似ていることを考慮して震央(北緯38.5°、東経144.5°)をより沖に定め、規模もM8.0-8.4と推定した。1897年の地震との類似を考慮すればM7.9程度になると推定している。 行谷佑一(2003)は震度分布が1978年宮城県沖地震に類似している事実、また津波襲来状況から1978年宮城県沖地震に加えて、さらに沖の海溝側を震源域とする1981年1月19日に発生した宮城県沖地震の震源域も含めたM8.0-8.2程度の連動型の巨大地震であると推定している。 2003年に改訂された地震調査研究推進本部による「宮城県沖地震の長期評価」では本地震は宮城県沖地震と日本海溝寄りの震源域が連動したM8.2程度の地震と位置付けられた。2011年11月に改訂された地震調査研究推進本部による「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価」では本地震を1897年の地震と共に繰り返し発生する「三陸沖南部海溝寄りのプレート間地震」と位置付け、M7.9程度、平均再来間隔を109年程度と評価した。
※この「震源域」の解説は、「寛政地震」の解説の一部です。
「震源域」を含む「寛政地震」の記事については、「寛政地震」の概要を参照ください。
震源域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:51 UTC 版)
河角廣はMK = 5としてマグニチュード M = 7.4を与えていたが、これは京都、近江および大和付近など限られた被害記録しか考慮しておらず、また宇佐美(2003)も記録の存在する震害の中心である北緯35.0°、東経135.8°を一応の震央とするとしている。 記録が畿内付近のものにほぼ限られており、この地震の全体像が明らかでないため、震源域には琵琶湖西岸断層帯活動説、南海トラフ巨大地震説、その他諸説がある。
※この「震源域」の解説は、「文治地震」の解説の一部です。
「震源域」を含む「文治地震」の記事については、「文治地震」の概要を参照ください。
震源域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 22:56 UTC 版)
安藤(1975)の断層モデルでは、震源域は直線上に広範囲に及び、愛知県三河湾南沖から、和歌山県東牟婁郡串本町の南東沖に至る南海トラフと平行した線上の地域で発生したと見られている。 上述のように、1940年代の半ばには大きな地震が相次いでおり、この地震から2年後の1946年(昭和21年)12月21日に昭和南海地震が発生した。2つの地震は同時発生ではないものの南海トラフにおける連動性があったと考えられている。一方で、昭和東南海地震は安政東海地震のように駿河湾奥(駿河トラフ)までは破壊が進行せず浜名湖南東沖辺りで破壊が止まったとされ、依然、東海地震の震源域が空白域として残されたと考えられている。 浜名湖沖で破壊が止まった理由について、「濃尾地震により南海トラフ側では歪みが増加し駿河トラフ側では歪みが減少した為」とする説がある、また茂木清夫(元地震予知連絡会会長)は濃尾地震により東海地震の発生が20年遅れたとする説を発表している。 また、紀伊半島沖ではプレート境界の断層すべりが固着域の下限からトラフ軸付近まで達しているのに対し、渥美半島沖ではトラフ軸まで達せず分岐断層が生じたものと推定されている。
※この「震源域」の解説は、「昭和東南海地震」の解説の一部です。
「震源域」を含む「昭和東南海地震」の記事については、「昭和東南海地震」の概要を参照ください。
震源域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 07:20 UTC 版)
河角廣(1951)は規模MK = 7.0 を与え、マグニチュードは M = 8.4に換算されている。また、M 8.0-8.5、あるいはM 8.3などと推定されているが、断片的な記録しか有しない歴史地震であるため数値の精度は高くない。畿内、琵琶湖、および揖斐川付近(木曽川河口付近)の強震動および津や駿河の甚大な津波被害から震源域は熊野灘沖および遠州灘沖(C, D領域)を含むことは確実とされ、さらに駿河湾(E領域)まで及んでいた可能性もあると推定される。 2年後に発生した康和地震を永長東海地震と対をなす南海道沖の地震と考えるには、日付の誤記、また阿波の『太龍寺縁起』が康和地震に触れていないなどいくつかの疑問点が残り、また震源時間の長い多重地震を思わす長時間の地震動から永長地震が南海道沖の地震を含んだ宝永型であった可能性を検討する必要もあるとされる。 浜名湖沿岸で津浪の痕跡が発見され、この時期に東海・南海地震が発生したことが示された。 887年の仁和地震から209年の間隔が開いているが、この間にもう1回の南海トラフ沿いの地震の存在が疑われるとの見方もあり、1994年の奈良県香芝町の箸尾遺跡の発掘調査により、10世紀後半から11世紀初頭の間に生成したと推定される液状化現象による砂脈が発見された。しかし、この地震痕跡は西日本の内陸地殻内地震の可能性も排除できず、この箸尾遺跡の地震痕のみを以て南海トラフ巨大地震と断定することはできないとされる。
※この「震源域」の解説は、「永長地震」の解説の一部です。
「震源域」を含む「永長地震」の記事については、「永長地震」の概要を参照ください。
「震源域」の例文・使い方・用例・文例
震源域と同じ種類の言葉
- 震源域のページへのリンク