震源域の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 21:12 UTC 版)
本地震の断層モデルを最初に提唱したのは1973年の安藤雅孝であり、これはプレートテクトニクスが成立してしばらく後1972年の金森博雄による1944年東南海地震が南海トラフのプレート境界に沿って起った低角逆断層の巨大地震であるとの推定を基に、海岸の上下変動や津波、震度分布の様子の違いから金森の1944年東南海地震の断層モデルをトラフ軸に平行に向けるなどアレンジし、東側の遠州灘に100km延長した全長230kmの断層モデルであった。 しかし1976年に石橋克彦は、それまで地震を起こす能力がほとんど無いと考えられていたプレート境界である駿河トラフについて、同年に羽鳥徳太郎によって収集された静岡県の文書を加え、地震史料の総合的な検討による本地震の駿河湾沿岸の隆起、明治以降の地殻変動、震度分布、山から望まれた駿河湾中央の津波発生の目撃談等から、本地震は駿河湾沿いも震源域であると提唱し、駿河トラフもプレートの沈み込み帯であり巨大地震を起こす能力があるとした。さらに蒲原などの地震山形成の記録から、震源域が駿河湾奥に達している可能性を論じた。これを基に熊野灘・遠州灘の震源断層に駿河湾に駿河トラフ軸に平行な断層を加えたモデルが提唱された。 一方2011年に瀬野徹三は、南海トラフ沿いの巨大地震について震源域をA(土佐湾), B(紀伊水道), C(熊野灘), D(遠州灘), E(駿河湾)領域に割り振る考えに疑問を呈し、東海側について、熊野灘は震源域に含むが駿河湾は含まない「宝永型」と、本地震のように熊野灘を含まず駿河湾を含む「安政型」に大別でき、それぞれの型は相補的な関係があるとした。対し石橋は、瀬野の主張する本地震による熊野灘沿岸の比較的低い震度について、瀬野が宝永型としている1944年東南海地震でも熊野灘沿岸は左程震度が高いわけではなく、さらに本地震による畿内の強震動あるいは湯峯温泉の湧出停止の可能性、宝永地震と安政地震の史料の非常なる量・質の相違を考慮しない駿河湾の震源域云々の議論の問題点などを指摘し、熊野灘を震源域に含まない「安政型」といった類別は成り立たないとしている。 さらに2017年に松浦律子らは、本地震による地殻変動あるいは断層が地上に現れた可能性が論じられた蒲原および松岡地震山について、1970年頃まだ宅地開発が進んでいない頃、蒲原地震山とされるものは富士川の中州のように見え、川の両岸に顕著な高低差が見られない、あるいは地震山が高々長さ600m程度であるなどの点を指摘して地震山が地殻変動の結果であるか疑問であるとし、本地震の震源域が本当に駿河湾奥まで達していたか慎重な再考が必要であるとしている。さらに2018年に田中圭らは、富士川河口域には地震による変位地形の痕跡が無く富士川河口断層帯の存在位置の十分な調査と検討が必要と指摘している。 安政地震や宝永地震などの震源域の議論は、将来の発生が予測される南海トラフ沿いの巨大地震に対する想定に大きく影響する話であるが、史料が豊富に現存する有名地震とは云え機器観測記録の存在しない歴史地震であり、震源域の議論一つを採っても決着を見ない問題点が山積している。
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