地震史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 23:57 UTC 版)
有史以来東北北部日本海側に被害を及ぼした地震は多いが、そのほとんどが内陸部に震源を持ち、人的被害は住宅が壊れたことなどによるものが多かった。1964年(昭和39年)5月7日には日本海中部地震とほぼ同じ場所でM 6.9の男鹿半島沖地震が発生しているが、このときは堤防決壊が3カ所、山崩れが5カ所、全壊住宅1戸、半壊住宅5戸の被害で津波は1 m未満しかなく、津波による被害はなかったため、逆に海岸に避難した方が安全であった。また、研究不足から日本海東縁海底を震源とする巨大地震とそれに続く津波に対する危険性の認識を低くさせていた。明治以降たびたび津波に襲われた三陸海岸の住民と違って、地震を津波に直接結びつける意識が行政および住民になく、津波警報がテレビで放映されても住民はそれに疑念を持った。そのことも前述のような津波被害につながる原因となった。反面、地震発生時が正午頃にもかかわらず、火災発生が全くなかったのは、地震と火災を結びつけて考えていた住民の意識と行政の啓蒙の成果とされている。 東日流外三郡誌では、十三湊の安東氏の勢力が失われるのは巨大地震とそれに続く津波が原因であるとするが、現在、東日流外三郡誌は偽書とされ、また十三湊には巨大津波の痕跡はないことが、発掘により明らかになっている。 この地域では1000年以上のサイクルで地震が発生すると想定され、その対策の効果を疑問視する人もいた。だが、わずか10年後の巨大地震でもある北海道南西沖地震が発生して対策の効果はある程度確認されている。 その後の研究により、日本海東縁地域は実は活発な地震地帯であり18世紀以降、100年に4 - 5回程度津波を伴う地震が続いていることが明らかとなり、太平洋側の相模湾・駿河湾や東海地域なみの観測態勢が望まれている。
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