戦国期甲斐武田氏の外交関係と佐竹氏
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「甲佐同盟」の記事における「戦国期甲斐武田氏の外交関係と佐竹氏」の解説
甲斐武田氏においては晴信期に相模国後北条氏との甲相同盟、駿河今川氏との甲駿同盟に北条・今川間の駿相同盟を加えた三国同盟を背景に信濃侵攻を行い、北信地域をめぐり山内上杉氏・関東管領職と継承した越後国上杉氏と争い(川中島の戦い)、北関東において上杉氏と争う北条氏とは共闘関係にあった。 川中島の戦いは永禄4年9月の第四次合戦を契機に収束し、同年末に武田氏は西上野侵攻を行い上野の一部を領国化している。さらに、このころ武田氏は将軍足利義昭を奉じて上洛した駿河今川氏の当敵である尾張国の織田信長との関係を深め、今川氏との関係が険悪化する。 今川氏とは永禄12年(1569年)に手切となり武田氏による今川領国侵攻が開始されるが(駿河侵攻)、武田氏は駿河侵攻に際して前年に会津蘆名氏に越後上杉氏への牽制を要請しており、この段階で蘆名氏ら関東諸族との外交関係がもたれていたと考えられている。 武田氏の今川領国への侵攻は甲相同盟を破綻させ、北条氏はそれまで敵対関係にあった越後上杉氏との越相同盟を締結し、武田方に対抗する。越相同盟に対して武田氏は織田信長・将軍足利義昭を通じた越後上杉氏との和睦(甲越和与)や後北条領国への侵攻を行い牽制する一方で、常陸の佐竹氏や下野国の宇都宮氏、下総国の簗田氏、安房国の里見氏ら北条氏と敵対する関東諸族との同盟を試みており、この段階ではじめて武田氏と佐竹氏の外交関係が確認される。 越相同盟に対抗する武田氏と佐竹氏の交渉では武田方からは信玄側近の甘利信忠や土屋昌続が取次を務めており、甘利・土屋らは関東に近い西上野国衆との取次を務めた経歴がある。この際は後北条氏に対抗する意味合いの「手合」の協議のほか、古河公方足利藤政の鎌倉帰還支援が約束されているが、後者に関しては実現を見ていない。 天正8年には真田昌幸・武田信豊を介して北条氏との「手合」を協議。勝頼期には信豊が取次となり下野佐野氏とも交渉。
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