会津蘆名氏とは? わかりやすく解説

会津蘆名氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:06 UTC 版)

蘆名氏」の記事における「会津蘆名氏」の解説

三浦義明の七男・佐原義連初代とするが、蘆名姓を名乗るのは、義連の息子盛連の四男光盛の代になってからである(異説あり)[要出典]。室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。 戦国時代蘆名盛氏時代最盛期迎えた。これにより、奥州伊達氏並び称される有力大名となった。 しかし、蘆名氏一族猪苗代氏はじめとする家臣統制苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題発生した。そのため天正8年1580年)、盛氏の死とともに蘆名氏次第衰え始める。 盛氏の死後二階堂氏からの人質二階堂盛義の子婿養子として後を継いだ蘆名盛隆である。周辺諸氏友好保ち伊達氏対抗したり、織田信長使者を送るなど積極的な政策打ち出すが、家中統制には苦慮している。天正12年1584年)に近従の大庭三左衛門暗殺されその後継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も天正13年1586年)に3歳夭逝。そして家臣団揉め揉めた末、佐竹義重の子蘆名義広蘆名家当主迎えた天正17年1589年)、奥州統一目指す伊達政宗摺上原の戦い大敗した蘆名義広常陸逃走し蘆名氏没落実家佐竹氏戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸城主となる(江戸崎藩)が、関ヶ原の戦いの際には、旗幟鮮明にしなかった実兄佐竹義宣行動を共にしたため改易次いで佐竹家臣として出羽国角館城1万6,000石を与えられたものの、盛重の死後息子相次いで病死最後当主蘆名千鶴丸3歳事故死したため家系断絶して蘆名氏滅亡した。 なお、蘆名家一門であった針生氏蘆名家滅亡後伊達氏仕え、この系統延宝4年1676年)に仙台藩主伊達綱村の命により蘆名改姓した

※この「会津蘆名氏」の解説は、「蘆名氏」の解説の一部です。
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