第三次合戦
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0116、重巡三隈は水上偵察機1機を射出した。三隈艦長崎山釈夫大佐の報告によれば全機発進を命じたものの、2号機と3号機が接触事故を起こし、1号機しか発進できなかったという。0119、第七戦隊(三隈、最上、敷波)が戦闘に参加する。まず、距離11,200mから七戦隊(三隈、最上)はそれぞれ6本(計12本)の魚雷を発射するが、そのまま直進するとバビ島にぶつかるため、左に反転した。0122、距離11,000mで照射砲撃を開始、連合軍艦隊2番艦(ヒューストン)に砲撃を集中した。ヒューストンは次々と命中弾を受け次第に速力が低下し始めた。しかしここで三隈の主接断器に故障が生じ探照灯等の電気系統が麻痺、主砲射撃が出来なくなった。三隈に続行する最上のみ砲撃を続け、0127に魚雷6本を発射する。三隈の電気系統故障は0130に復旧、「我今ヨリ敵ノ止メヲ刺ス」と全軍に電報したのち、2番艦(ヒューストン)に9,000mから照射砲撃を開始した。第5駆逐隊は敵艦からの砲撃に悩まされつつ、戦闘を続けた。春風は0126に魚雷6本をパースに向け発射、2分後に命中とおぼしき水柱を確認した。ただし古要(春風艦長)は、発射した魚雷は日本軍輸送船団の方に疾走したと回想している。旗風は0128に距離3,800mから魚雷6本を発射、朝風と共に西方に避退した。第12駆逐隊は敵艦に接近、叢雲は0130-0132に魚雷9本を発射、つづいて照射砲撃を実施した。名取は0130に距離8,000mで照射砲撃を開始、さらに第11駆逐隊、第12駆逐隊、第5駆逐隊を呼び寄せて0200までに単縦陣を形成すると、南進してヒューストンを目指した。日本側では敷波が至近弾によりスクリューに軽微な損傷を受けた。
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第三次合戦
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第三次合戦は、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、武田晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。 弘治2年(1556年)6月28日、越後では宗心(景虎)が出家隠遁を図る事件が起きている。上杉景虎は長尾政景らの諫言、家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。晴信は長尾氏との和睦後も北信国衆や川中島方面の国衆への調略を進めており、同年7月には高井郡の市河氏にも知行宛行を行っている。8月には真田幸綱(幸隆)・小山田虎満(備中守)らが東条氏が拠る長野盆地東部の埴科郡尼飾城(長野市松代町)を陥落させ、同年8月には上杉景虎家臣の大熊朝秀が武田氏に内通し挙兵する事件が起きており、朝秀は同月13日に越後駒帰(新潟県糸魚川市青梅)において景虎に敗れると武田氏に亡命し武田家臣となっている(『上越』)。 弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。同2月15日に晴信は長尾方の前進拠点であった水内郡葛山城(長野市)を落とし落合氏を滅ぼし、高梨政頼の居城である飯山城に迫った。晴信はさらに同3月14日に出陣し、北信国衆への褒賞などを行っている。上杉謙信の対応は雪解けまで遅れた。 長尾氏も攻勢を強め、4月18日には長尾景虎自身が出陣し長野盆地に着陣した。4月から6月にかけて北信濃の武田氏の諸城を攻め、高井郡山田城、福島城を落とし、長沼城と善光寺を奪還。横山城に着陣して、さらに破却されていた旭山城を再興して本営とした。5月、長尾景虎は武田氏領内へ深く侵攻、埴科郡・小県郡境・坂木の岩鼻まで進軍した。 6月11日に景虎は高梨政頼を派遣して高井郡の市河藤若(信房か)への調略を行い、同16日に晴信は藤若に対して援軍を約束しており、同18日には北条氏康の加勢である北条綱成勢が上田に到着し、同23日に景虎は飯山城へ撤退した。晴信は市河氏(志久見郷)への救援に塩田城の原与左衛門尉の足軽衆を派遣させているが間に合わず、塩田城の飯富虎昌に対して今後は市河氏の緊急時に際しては自身の命を待たずに派兵することを命じている。武田氏は志久見郷の防衛に成功。長尾氏は武田領深く侵攻し長野盆地奪回を図り7月には高井郡野沢城・尼飾城を攻めるが武田氏は決戦を避け、長尾景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。 弘治3年(1557年)7月5日、武田氏は安曇郡平倉城(小谷城)を攻略すると北信・川中島へと侵攻し、8月下旬には髻山城近くの水内郡上野原において武田氏・長尾氏は合戦を行う。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げ、晴信も10月には甲斐国へ帰国した。
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