第三次大院君政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:21 UTC 版)
甲申政変後の1885年、興宣大院君は朝鮮への帰国を果たした。閔氏政権は長期化するなかで官職売買と賄賂が横行し、政治の腐敗がいっそう進行して地方官が買官経費の回収や蓄財のために郷吏と結んで管下の住民が不法な収奪をおこなうことも慢性化した。これに苦しんだ民衆は収奪緩和を求める活発な請願活動を展開し、さらに腐敗した地方官・郷吏を実力で排除する民乱を起こした。1888年以降、民乱は毎年のように続いた。 1894年2月(これより陽暦)、全羅道古阜郡で東学の地方幹部だった全琫準の指揮下に民乱が起こった。これが甲午農民戦争の始まりであり、農民軍は政府軍を次々に打ち破り、占領地を拡大させた。深刻な危機に陥った閔氏政権は自力鎮圧を困難とみて、閔泳駿の提議により清国軍の出兵を求めることを決めた。これを受けて政府は6月3日袁世凱に出兵を求め、それに応じて清国軍が忠清道牙山に上陸、対抗して日本も公使館と居留民の保護を名目に漢城に軍を送った。日本政府は6月なかばに日清両国共同による反乱の鎮圧と朝鮮の内政改革を清国側に提議したが、これは清の拒否するところなり、6月下旬、日本単独での朝鮮内政改革方針を閣議決定し、朝鮮政府に改革の実施をせまった。7月16日、督弁趙秉稷は日本軍の撤兵を求める声明を出して、日本の軍事力を背景とする内政干渉に抗議した。しかし、日本軍は漢城-釜山間の軍事用電信機敷設に着手し、大鳥圭介公使は逆に清国軍の撤退と中朝商民水陸貿易章程など3章程の廃棄を求めた。これを朝鮮政府が拒むと、日本軍は7月23日、景福宮などの要地を占領し、朝鮮政府軍を武装解除して興宣大院君を担ぎ出して閔氏政権を倒した。第三次大院君政権の成立である。趙秉稷は3章程の廃棄を清国に通告し、清国・朝鮮の宗属関係は断たれた。直後に日清両国間に戦端がひらかれた(日清戦争)。 しかし、第三次政権では大院君自身には実権がなかった。日本優勢の戦況下、10月の井上馨公使の着任後は朝鮮に対する日本の干渉はさらに強まり、11月、井上が高宗に「内政改革綱領」を承認させ、大院君、王妃の政治関与を禁じた。
※この「第三次大院君政権」の解説は、「大院君政権」の解説の一部です。
「第三次大院君政権」を含む「大院君政権」の記事については、「大院君政権」の概要を参照ください。
- 第三次大院君政権のページへのリンク