第三次尼子再興運動 - 幸盛の死
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「山中幸盛」の記事における「第三次尼子再興運動 - 幸盛の死」の解説
因幡国より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。京で信長に面会した幸盛は、信長より「良き男」と称され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。 天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波籾井城攻めに参加する。11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野・赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。 天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに参加する(信貴山城の戦い)。幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っている。 10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。 12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行く。上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の国境に位置し、この地域を治める上で重要な拠点であった。城番となった幸盛は、この区域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作国人の懐柔・調略を行っていく。 天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の将・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。 2月中旬(3月下旬)、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。織田氏と交戦状態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3万以上の兵をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。 5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1万の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書写山まで撤退する。その結果、上月城は孤立無援となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する(上月城の戦い)。 降伏の条件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。その他、毛利氏に敵対した多くの者は処刑され、それ以外の者は許され解放された。 人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の福間元明により謀殺された。享年34または39。
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