和睦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 06:40 UTC 版)
トルコの歴史家達は、メフメト・パシャはロシアにとって比較的容易な条件で条約に調印するという大きな戦略的ミスを犯したとかねてから主張している。ピョートル1世自身がロシア軍を指揮していたため、もしメフメト・パシャがピョートル1世の和平提案を受け入れず、ピョートル1世を捕らえようと更に追撃していれば歴史は変わっていたかもしれない。ピョートル1世がいなければ、ロシアは帝国になりえなかったかもしれないし、バルカン半島や黒海沿岸、カフカースなどを巡ってオスマン帝国の将来の宿敵になることもなかったかもしれないのである。 イスタンブールでは勝利のニュースが伝えられた時、最初は歓迎されたが、結果に不満な主戦論者達の多くはメフメト・パシャに対して敵意を抱き、メフメト・パシャはピョートル1世から賄賂を受け取ったとして非難された。後にメフメト・パシャは大宰相の職を解任されている。 カール12世と主戦派の同盟国(クリミア・ハン国のデヴレト・ギレイ2世)は、スルタンに更なる戦争をさせるために開戦工作を続けた。翌年の春には、ロシアの講和条件の遂行の遅れを理由に戦争まであと一歩という状態にはなったものの、戦争は外交によって避けられ、第2の条約が1712年4月17日に調印された。この1年後に開戦工作は成功、今度はロシア軍のポーランドからの退却の遅れを理由に戦端が開かれた。しかしアフメト3世は1713年4月30日に宣戦布告をしたものの、実際に戦火を交えることはなく、講和がすぐに協議された。 アフメト3世は主戦論者達に悩まされた結果、カール12世を宮廷から遠ざけ帰国を支援することにした。また、デヴレト・ギレイ2世はカール12世を囚人だとみなしてその命令を無視したため、アフメト3世はデヴレト・ギレイ2世をクリミア・ハン国からオスマン帝国領のロドス島に追放した。立場が悪化したカール12世は1714年にザクセン、デンマーク、プロイセンとロシアの同盟軍によって包囲されていたスウェーデン領ポメラニアとシュトラールズントを救うため、最終的にオスマン帝国を去った。しかし、5年間の不在でスウェーデン領ドイツは同盟軍に全て奪われ戦局はスウェーデン不利になり、追い詰められたスウェーデンは同盟国から遠ざけられたロシアとの和睦交渉を始めた。
※この「和睦後」の解説は、「プルート川の戦い」の解説の一部です。
「和睦後」を含む「プルート川の戦い」の記事については、「プルート川の戦い」の概要を参照ください。
- 和睦後のページへのリンク