和睦成立と秀吉の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:08 UTC 版)
「備中高松城の戦い」の記事における「和睦成立と秀吉の撤退」の解説
秀吉は包囲を継続する一方、毛利氏との講和の交渉にも入った。毛利方もまた、軍僧の安国寺恵瓊を黒田孝高のもとに派遣し、「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示した。しかし、秀吉はこれを拒否して「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉はいったん物別れに終わった。毛利方は清水宗治に対して救援の不可能なことと、秀吉に降伏するべきという旨を伝えたが、宗治は自分の命を城とともにしたいとしてこれを拒否する。毛利方は安国寺恵瓊を高松城に送り込んで説得を試みたが、宗治は主家である毛利家と城内の兵の命が助かるなら自分の首はいとも安いと述べ、自らと兄である月清と弟の難波宗忠(田兵衛。「伝兵衛」は誤伝)、小早川氏からの援将である末近信賀の4人の首を差し出す代わりに籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託した。 ちょうどこの時(6月3日夜)、秀吉方は明智光秀から毛利方に送られた使者を捕らえ、信長が明智光秀の謀反によって京都の本能寺で落命した(本能寺の変)という密書を手にする。秀吉はすぐに黒田孝高と合議し、一刻も早く毛利と和睦して明智光秀を討つべく上洛する方針を固める。 秀吉方は信長落命によって秀吉が後ろ盾を失った状態であることを毛利方に知られないように徹底的に信長落命の事実を隠匿した。翌6月4日に秀吉は安国寺恵瓊を呼び、割地を河辺川(高梁川)と八幡川以東の割譲(先の5か国から、備中・美作・伯耆の3か国に譲歩)とし、清水宗治自刃を和睦条件として提示した。毛利方はやむなくこの条件を受け入れ、ここに和睦が成立した。なお、人質として、毛利側から吉川広家と小早川元総(後の小早川秀包)が、秀吉側から森重政・高政兄弟(後にいずれも毛利姓を名乗る)が送られた。 4月下旬に制海権を失い、持久戦の準備をしている織田軍に対して力攻めをする兵力がなく、持久戦に耐える物資輸送手段に窮した毛利氏には講和をするしかなかったのである。 清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、身なりを整えた。その後、宗治ら4人は秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ、杯を交わした。そして舞を踊った後「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句をしたため、自害した。他3人も次々と自害を遂げ、4人の介錯を行った國府市正も自刃した。秀吉は宗治を武士の鑑として賞賛した。 秀吉は、毛利軍の出方を一日見極めた上で、6日の昼過ぎに京に向けて軍勢の移動を開始した。高松城に杉原家次を置き、山陽道を東へ向かった(中国大返し)。なお、毛利方が本能寺の変報を入手したのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家の覚書(案文)から確認できる。
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