和睦、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 07:08 UTC 版)
「ゾフィー・フォン・ブラバント」の記事における「和睦、晩年」の解説
1263年10月27日、ハインリヒ3世の2人の息子アルブレヒトとディートリヒは、9時間に及ぶベーゼンシュテットの戦い(ヴェッティン家の本拠地の近く)でアルブレヒト・フォン・ブラウンシュヴァイクに勝利し、彼を捕虜にした。ゾフィーはこのヴェッティン家同盟軍に対する敗北を受けてテューリンゲンに対する主張を翌1264年に断念した。但し、ヘッセンに関する主張は認められ、ハインリヒは1292年にヘッセン方伯に就任した。 1275年5月29日に死去。かつてのブラバントに位置するヴィレ=ラ=ヴィル(現在はベルギー領)のシトー会修道院の修道院教会に葬られた。ブラバント公は継子(アンリ2世と先妻の子)のアンリ3世が相続、ヘッセンは神聖ローマ帝国の領邦としてハインリヒ1世の子孫に受け継がれていった。16世紀にプロテスタントの擁護に立ち上がり、シュマルカルデン同盟を結成したザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップはハインリヒ3世とゾフィーの子孫である。
※この「和睦、晩年」の解説は、「ゾフィー・フォン・ブラバント」の解説の一部です。
「和睦、晩年」を含む「ゾフィー・フォン・ブラバント」の記事については、「ゾフィー・フォン・ブラバント」の概要を参照ください。
- 和睦、晩年のページへのリンク