和睦後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:33 UTC 版)
和議成立後、甲斐では河内領は穴山勝千代に安堵され、かつて小山田氏の支配地域だった郡内領には鳥居元忠 が配置された。甲斐中央部の国中領は躑躅ヶ崎館を本拠とし、平岩親吉と岡部正綱(天正11年の岡部没後は平岩単独)が派遣されて支配を行った。 天正10年10月の和議の後も、信濃国では徳川氏と在地勢力の間で抗争が続いた。 依田信蕃は後北条方の大道寺政繁が撤退した後の小諸城も任され、周辺の勢力が続々と信蕃の下に集ってきたが、これを良しとしない勢力は、後北条方の信濃佐久郡岩尾城主の大井氏の下に集まった。 天正10年(1582年)11月、依田信蕃は前山城 (信濃国)を攻めて、前山伴野氏の伴野信守、伴野君臣、伴野貞長を滅ぼした。伴野貞長の弟伴野信行は、武州八王子に逃れた。 天正10年(1582年)12月に諏訪頼忠は家康と和睦したが、依田信蕃は大井行吉が守る岩尾城攻めで落命した(根拠史料)。その後、大井行吉は柴田康忠に説得され、岩尾城を開城した。 上野・沼田領の帰属問題では、真田氏が上杉氏と結んで徳川氏と対立、信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配し、上田合戦に発展した。上杉氏は北部4郡の支配を維持、徳川氏は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域、北条は上野南部を獲得した。
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