合戦後の情勢と影響とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 合戦後の情勢と影響の意味・解説 

合戦後の情勢と影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:35 UTC 版)

桶狭間の戦い」の記事における「合戦後の情勢と影響」の解説

今川家実質的な当主今川義元松井宗信久野元宗井伊直盛由比正信一宮宗是蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍浮き足立ち、残った諸隊駿河向かって後退した水軍率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪服部友貞撤退途中熱田焼き討ち企んだが町人の反撃失敗し海路敗走した大高城守っていた松平元康(後の徳川家康)も戦場離れ大樹寺松平家菩提寺)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。前途悲観した元康祖先墓前切腹し果てようとしたその時当寺13住職登誉天室が「厭離穢土 欣求浄土」を説き元康切腹思いとどまった。そして教え書した旗を立て寺僧とともに奮戦し郎党退散させた。以来元康はこの言葉馬印として掲げるようになる。こうして元康今川軍城代山田景隆捨てて逃げた三河岡崎城にたどりついた。 尾張三河の国境で今川方についた諸城依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍破ったことで勢い付き6月21日7月14日)に沓掛城攻略し近藤景春敗死追い込むなど、一帯一挙に奪還していった。しかし鳴海城城将岡部元信以下が踏み留まって頑強に抵抗続け、ついに落城しなかった。元信織田信長交渉し今川義元首級引き換え開城駿河帰る途上にある三河刈谷城攻略し水野信近討ち取った(ただし、味方支援受けられなかったために信近を討ったものの、刈谷城落としきれずに帰国したとする説もある)。信近の兄の水野信元はただちに刈谷城奪還したうえ、以前今川攻略されていた重原城も奪還した一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏勢力一掃されたうえ、別働隊先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎松平元康今川氏から自立して松平氏旧領回復目指し始め、この地方織田信長元康角逐の場となった。しかし元康義元の後を継いだ今川氏真義元仇討出陣をしないことを理由に、今川氏から完全に離反し永禄5年1562年になって真に無断織田氏講和した(織徳同盟)。以後公然と今川氏敵対して三河統一進めていった。また、信長松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後美濃斎藤氏との戦い専念できるようになり、急速に勢力拡大させていった桶狭間合戦では義元本隊主力駿河遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国動揺信長台頭地域情勢多大な影響及ぼした甲相駿三国同盟一角である今川家当主討ち取られたことで、北条家武田家敵対する勢力とりわけ越後長尾景虎上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなり、太田資正勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯多く謙信与し小田原城の戦い第四次川中島の戦い繋がっていった。さらに甲斐武田氏今川氏は関係が悪化し永禄11年末には同盟手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻駿河侵攻)が開始される信長武田氏永禄初年頃から外交関係持っており、武田氏同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの、永禄8年頃には信長養女信玄世子武田勝頼嫁いでいるなど関係は良好となった以後信長武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢影響及ぼした

※この「合戦後の情勢と影響」の解説は、「桶狭間の戦い」の解説の一部です。
「合戦後の情勢と影響」を含む「桶狭間の戦い」の記事については、「桶狭間の戦い」の概要を参照ください。


合戦後の情勢と影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 03:40 UTC 版)

山王堂の戦い」の記事における「合戦後の情勢と影響」の解説

戦い勝った謙信小田城佐竹義昭多賀谷政経真壁氏幹)に渡し翌日の末明け早くも陣払いして上野平井戻りその後越後帰国した一方常陸国志」では小田城佐竹義昭預けたとしている。翌・永禄8年1565年)、藤沢城へ結集した小田勢は小田城急襲敵方城兵駆逐し小田城回復した

※この「合戦後の情勢と影響」の解説は、「山王堂の戦い」の解説の一部です。
「合戦後の情勢と影響」を含む「山王堂の戦い」の記事については、「山王堂の戦い」の概要を参照ください。


合戦後の情勢と影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:15 UTC 版)

天神山城の戦い」の記事における「合戦後の情勢と影響」の解説

この戦で浦上宗景所領失って播磨逃走し降伏した三浦貞広高田城安堵されず毛利家臣の楢崎元兼城代として入ることとなり、貞広は一度毛利氏身柄送られたが、やがて宇喜多氏預かりとなり、浦上美作三浦両氏勢力として滅亡浦上旧臣多く宇喜多直家鞍替えしており、三浦旧臣も牧一族などが宇喜多仕え事となった。領の区分については浦上旧領宇喜多服すことを良しとしない三星城後藤勝基茶臼山城笹部勘次郎らの領を除いて宇喜多領に併呑され三浦旧領高田城毛利氏接収されたものの篠向城・寺畑城などが宇喜多となったまた、備中備中兵乱制した毛利氏直轄支配するところとなり宇喜多氏南部一部得て、また水運要衝である備前児島一時毛利氏差し押さえたが後に宇喜多氏譲渡され戸川秀安領した反毛同盟首魁であった大友宗麟が豊芸和平締結によって「九州からの毛利勢力追放」という目的がほぼ果たされていたので美作三浦氏などに約束していた赤間関への出兵空手形であり、自ら豊芸和平破棄するような行動は最後まで起こさなかった。また、大友が行動を起こさなかったことで村上武吉大友と距離を置き毛利との関係修復動いている。美作への派兵約束していた山中幸盛但馬因幡の両山名氏毛利寝返ったことで実際にはとても美作へと兵を割けるような状況ではなく苦戦強いられており、逆に天正4年1576年5月には若桜鬼ヶ城攻略され、中国地方拠点失った尼子再興軍は京へと敗走中国地方根強く反毛活動行なっていた浦上美作三浦両氏滅亡合わせて反毛同盟は完全に崩壊した一方で浦上宗景敗退の報を受けた織田信長天正3年1575年9月中に越前一向一揆鎮圧に向かわせていた荒木村重急遽呼び戻して播磨送り込み小寺政職別所長治赤松広秀播磨国衆から人質徴発し、重に命じて播磨退去した宗景の館を拵えさせた。天正4年1576年)には京を追われ足利義昭備後鞆に入り鞆幕府作られ毛利氏宇喜多氏石山本願寺同盟し第三次信長包囲網形成される宇喜多氏播磨侵入して八幡山まで兵を進め毛利氏毛利水軍動かして三好氏衰退によって目立った抵抗勢力無くなった播磨制海権取り一挙大坂湾にまで進出同年7月には第一次木津川口の戦い織田軍を撃破し本願寺との連携をより密なものにした。 この合戦によって浦上宗景三浦貞広敗れ、代わって備前美作掌握した宇喜多直家毛利臣従し、大友宗麟呼びかけ毛利包囲網も完全に崩壊したことで周辺脅威無くなった毛利氏一気東へと兵を進める事が可能になり、播磨でも英賀城三木通秋上月城赤松政範長水城宇野政頼龍野城赤松広英毛利と結び、順調に進みつつあった織田氏による播磨国衆の調略大きく影を落とし石山合戦更なる長期化にも繋がった

※この「合戦後の情勢と影響」の解説は、「天神山城の戦い」の解説の一部です。
「合戦後の情勢と影響」を含む「天神山城の戦い」の記事については、「天神山城の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「合戦後の情勢と影響」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「合戦後の情勢と影響」の関連用語

合戦後の情勢と影響のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



合戦後の情勢と影響のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの桶狭間の戦い (改訂履歴)、山王堂の戦い (改訂履歴)、天神山城の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS