合戦後の情勢と影響
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今川家の実質的な当主の今川義元や松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。 大高城を守っていた松平元康(後の徳川家康)も戦場を離れ、大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。前途を悲観した元康は祖先の墓前で切腹して果てようとした。その時、当寺13代住職登誉天室が「厭離穢土 欣求浄土」を説き、元康は切腹を思いとどまった。そして教えを書した旗を立て、寺僧とともに奮戦し、郎党を退散させた。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は今川軍の城代山田景隆が捨てて逃げた三河岡崎城にたどりついた。 尾張・三河の国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日(7月14日)に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・岡部元信以下が踏み留まって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城。駿河に帰る途上にある三河刈谷城を攻略して水野信近を討ち取った(ただし、味方の支援が受けられなかったために信近を討ったものの、刈谷城を落としきれずに帰国したとする説もある)。信近の兄の水野信元はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた重原城も奪還した。 一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。しかし元康は義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由に、今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後は美濃の斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。 桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことで、北条家や武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなり、太田資正や勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが謙信に与し、小田原城の戦いや第四次川中島の戦いに繋がっていった。さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており、武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの、永禄8年頃には信長養女が信玄世子の武田勝頼に嫁いでいるなど関係は良好となった。以後、信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。
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合戦後の情勢と影響
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戦いに勝った謙信は小田城を佐竹義昭(多賀谷政経・真壁氏幹)に渡し、翌日の末明けに早くも陣払いして上野平井へ戻り、その後越後へ帰国した。一方「常陸国志」では小田城を佐竹義昭に預けたとしている。翌・永禄8年(1565年)、藤沢城へ結集した小田勢は小田城を急襲、敵方の城兵を駆逐して小田城を回復した。
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合戦後の情勢と影響
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「天神山城の戦い」の記事における「合戦後の情勢と影響」の解説
この戦で浦上宗景は所領を失って播磨へ逃走し、降伏した三浦貞広も高田城は安堵されず毛利家臣の楢崎元兼が城代として入ることとなり、貞広は一度は毛利氏に身柄を送られたが、やがて宇喜多氏預かりとなり、浦上・美作三浦両氏は勢力として滅亡。浦上旧臣は多くが宇喜多直家に鞍替えしており、三浦旧臣も牧一族などが宇喜多に仕える事となった。領の区分については浦上旧領は宇喜多に服すことを良しとしない三星城主後藤勝基や茶臼山城主笹部勘次郎らの領を除いて宇喜多領に併呑され、三浦旧領は高田城は毛利氏に接収されたものの篠向城・寺畑城などが宇喜多領となった。また、備中は備中兵乱を制した毛利氏が直轄支配するところとなり宇喜多氏も南部の一部を得て、また水運の要衝である備前児島は一時毛利氏が差し押さえたが後に宇喜多氏に譲渡され戸川秀安が領した。 反毛利同盟は首魁であった大友宗麟が豊芸和平の締結によって「九州からの毛利勢力の追放」という目的がほぼ果たされていたので美作三浦氏などに約束していた赤間関への出兵は空手形であり、自ら豊芸和平を破棄するような行動は最後まで起こさなかった。また、大友が行動を起こさなかったことで村上武吉は大友と距離を置き毛利との関係修復に動いている。美作への派兵を約束していた山中幸盛も但馬・因幡の両山名氏が毛利に寝返ったことで実際にはとても美作へと兵を割けるような状況ではなく苦戦を強いられており、逆に天正4年(1576年)5月には若桜鬼ヶ城を攻略され、中国地方に拠点を失った尼子再興軍は京へと敗走。中国地方で根強く反毛利活動を行なっていた浦上・美作三浦両氏の滅亡と合わせて反毛利同盟は完全に崩壊した。 一方で浦上宗景敗退の報を受けた織田信長は天正3年(1575年)9月中に越前一向一揆鎮圧に向かわせていた荒木村重を急遽呼び戻して播磨に送り込み、小寺政職・別所長治・赤松広秀ら播磨国衆から人質を徴発し、村重に命じて播磨に退去した宗景の館を拵えさせた。天正4年(1576年)には京を追われた足利義昭が備後鞆に入り鞆幕府が作られ、毛利氏と宇喜多氏や石山本願寺が同盟し第三次信長包囲網が形成される。宇喜多氏は播磨へ侵入して八幡山まで兵を進め、毛利氏は毛利水軍を動かして三好氏の衰退によって目立った抵抗勢力の無くなった播磨の制海権を取り、一挙大坂湾にまで進出。同年7月には第一次木津川口の戦いで織田軍を撃破して本願寺との連携をより密なものにした。 この合戦によって浦上宗景や三浦貞広が敗れ、代わって備前・美作を掌握した宇喜多直家が毛利に臣従し、大友宗麟の呼びかけた毛利包囲網も完全に崩壊したことで周辺の脅威が無くなった毛利氏は一気に東へと兵を進める事が可能になり、播磨でも英賀城主三木通秋や上月城主赤松政範、長水城主宇野政頼、龍野城主赤松広英が毛利と結び、順調に進みつつあった織田氏による播磨国衆の調略に大きく影を落とし、石山合戦の更なる長期化にも繋がった。
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