合戦絵とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 学問 > 歴史民俗用語 > 合戦絵の意味・解説 

合戦絵


戦争絵

(合戦絵 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/13 21:08 UTC 版)

西南戦争を描いた「鹿児島暴徒出陣図」(月岡芳年画)

戦争絵(せんそうえ)とは、幕末から明治時代に描かれた浮世絵の様式のひとつ。戊辰戦争西南戦争日清戦争日露戦争などを題材とした浮世絵を指す。絵が説明的で単調な作品が少なからず含まれてはいるものの、見る者を鼓舞する迫力や勢いが感じられる作品や、戦場風景の美しさを追求したものもあり、また当時の人々の戦争に対する意識が感じ取れる作品群である、

解説

幕末動乱

江戸時代から歴史や物語で語られる戦いは浮世絵の題材となっており、武者絵合戦絵などと呼ばれていたが、太平の世に生きる人々にとってはあくまで過去あるいは空想上の出来事に過ぎなかった。しかし、黒船来航以降の動乱によって戦争が現実のものとなってくる。江戸幕府は、同時代の事件や出来事を出版するのを禁止していたが、人々の世の動き知りたい欲求まで抑えるのは不可能であった。幕末の浮世絵師たちは、表向きは源平合戦蒙古襲来戦国時代の合戦など過去の戦に取材しつつも、実際には当時の戦争をほのめかす趣向を凝らし、見る人に絵の読み解きを促してその期待に応えた。代表的な絵師としては、歌川芳虎月岡芳年河鍋暁斎歌川貞秀らが挙げられる。彼らの多くは歌川国芳からの影響を受けており、国芳以来の大判三枚続の迫力ある画面を用いるのみならず、その風刺や諧謔味、反骨精神も受け継いでいる。

西南戦争

明治維新文明開化によって世の中が大きく変化し、浮世絵もどうなるか不透明なさなか西南戦争が起こり、当時流行していた錦絵新聞の流れに乗って制作された。作品点数は、概算で約300点程度とも500点近いとも言われる[1]。多くの浮世絵師が手掛けたが、月岡芳年(66点)と楊洲周延(47点)が群を抜いて多い。大半の錦絵は明治10年(1877年)の出版だが、翌年に及ぶものもある。題名は「西南」を冠するものより、「鹿児島征討」「鹿児島紀聞」「鹿児島戦争」など「鹿児島」を付すものが多く、個人名では「西郷隆盛」と冠するものが多い。西郷人気と明治政府への根強い不信感を反映してか、総じて薩摩軍の方が格好良く、同情的に描かれている。

構図や絵画表現は、遠近法陰影法など西洋画法を若干加味しているが、多くは幕末武者絵の名残を残し、芝居がかった作意が多い。制作方法は、実際に絵師が見聞したのではなく、当時の新聞を元にしている。この頃の新聞報道は、現代の我々がメディアに抱く「中立的視点」や「客観的報道言説」に対する意識が希薄で、や伝聞など明らかに疑わしい情報も一緒くたに報じられ、面白みをもって読者に伝える趣が強かった。そのため、錦絵もこれを反映して虚々実々取り混ぜて描かれ、より面白くするため話を更に誇張して想像図として仕立てた作品もある。例えば、元長州藩士の前原一格なる人物が、萩の乱をおこした前原一誠の弟として画中にしばしば登場するが、架空の人物である[2]。また、村田新八田原坂の戦いで戦死したとの情報が流れ、以降の事件に登場しなくなるが、後に誤報とわかったらしく西郷最期の場面では再び登場するようになる。更に、薩摩軍の中に女隊と称する500人ほどの部隊がいるという噂が広がり格好の題材となり、周延が特に好んで描いているが、これも真偽は怪しい。なお、出版条例に伴い販売価格を表示してあるのも特徴だが、2,3年後には表記が無くなる。値段は1枚2銭、3枚続だと6銭が相場だった。

日清戦争

続いて朝鮮事変(壬午事変、1882年)から明治27年(1894年)の日清戦争が起こる。この日清戦争錦絵が最大の戦争絵ブームであり、そして長い浮世絵史上にとって最後の輝きとなった。日清戦争の宣戦布告8月1日だが、早くも9日付の『読売新聞』には、都下の絵草紙屋はこちらも戦争のように忙しく、既に25種類が出版されている、と伝えている。大判三枚続が定番で、総数は300点を超えると推定される。対外的かつ総力を挙げての大きな戦争であって、国民的意識を駆り立てるものになった。この戦争を軸に国内外の思想、精神的姿勢も急激に変化していった。江戸時代以来の伝統的な町絵師であった浮世絵師たちも、この時期に戦争絵に飛びつき、大衆もこれを迎え入れ、錦絵のブームを巻き起こしたのであった。陸上における戦闘のみに限らず、近代戦として軍艦同士の戦いもあったり、兵器の発達もまた眼新しい題材となった。小林清親の詩情に満ちた戦争絵はいうまでもないが、役者絵を専門としていた豊原国周までもが、玄武門の戦いの様子を描くといった勢いであった。作品点数は清親が圧倒的に多く、他に尾形月耕梅堂小国政田口米作らが手掛けた。しかし、戦争が終結した明治28年(1895年)の秋頃には、浮世絵自体の売れ行きが鈍り、役者絵でも初摺の一杯(200枚)を裁くのが関の山で、二杯目以降は摺りを簡略化し、田舎に回したという[3]

日露戦争

その後、明治37年(1904年)に勃発した日露戦争の際にも戦争絵が描かれたが、既に写真報道の時代を迎え、戦争錦絵に人々を引き付けるだけの魅力はなかった。小林清親、尾形月耕右田年英など数名の絵師が手掛けたのみで終わり、日清戦争の時ほどのブームとはならなかった。制作点数も50点に満たないとみられる。その画面は西洋画法が用いられ輪郭線に頼らず、日本画のような淡い色彩を多用し、彫り・摺り共に制作密度の濃い作品が多い。しかし、これは逆に言えば、浮世絵が単に絵画や写真を再現するための実用技術と化してしまう事を意味し、木版画としての個性を失う結果になってしまった。日露戦争後は戦争絵は描かれなくなるが、昭和17年(1942年)に三代目長谷川貞信真珠湾攻撃を題材にした「昭和十六年十二月八日布哇真珠湾に於いて皇国海軍米国太平洋艦隊を撃沈す」(大判3枚続、浅井コレクション蔵)を大阪で出版している。

ギャラリー

脚注

  1. ^ 前者は、千頭泰 「西南戦争錦絵目録(未完稿)」『季刊浮世絵』第8号第3号、1969年。後者は、小西四郎 「錦絵随想8」『錦絵幕末明治の歴史』第8巻付録、講談社、1977年。因みに、ご当地の鹿児島県歴史資料センター黎明館が、最も多く西南戦争錦絵を所蔵している。
  2. ^ 日野原(2016)p.34。
  3. ^ 『読売新聞』明治29年(1896年)5月7日付。

参考文献

関連項目


合戦絵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)

鎌倉文化」の記事における「合戦絵」の解説

平治物語絵巻 平治の乱描写した合戦物で鎌倉中期13世紀)の制作である。紙本著色。藤原信頼源義朝による「三条殿夜討」の場面がとくに有名。六波羅行幸巻1巻(東京国立博物館所蔵本)は国宝指定されている。他に静嘉堂文庫本、米国ボストン美術館所蔵本等がある。この時代大和絵正系属す作者による合戦物の最高峰評される蒙古襲来絵詞 元寇のようすを描いたもので、肥後国武士竹崎季長子孫自分活躍伝えるために描かせたもの。当時武士気質戦闘実際伝え貴重な絵画資料ともなっており、土佐長隆の筆と伝わる。私的な事項についてみずから絵巻にして記録した事例は他に類例をみない。三の丸尚蔵館前九年合戦絵詞陸奥話記』を先行文献として前九年の役経緯あらわしたもので、現在は千葉県佐倉市国立歴史民俗博物館所蔵されている。重要文化財後三年合戦絵巻 後白河法皇による4巻本と玄恵による6巻本があるが、後者1347年貞和3年)に飛騨守久によって描かれたものと伝わる。後三年の役において出羽清原氏内紛介入した源義家を描く。殺戮場面生々しくあまりに残虐なため、宗教的意図介在指摘される東京国立博物館所蔵重要文化財

※この「合戦絵」の解説は、「鎌倉文化」の解説の一部です。
「合戦絵」を含む「鎌倉文化」の記事については、「鎌倉文化」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「合戦絵」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「合戦絵」の関連用語

合戦絵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



合戦絵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの戦争絵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの鎌倉文化 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS