旺盛な著述と転写活動
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応助は三十代という壮齢期に大変貧しい生活を送っていたが、この時期に一番旺盛に執筆を行った。応助の著書の大半が未刊行のものも含めて郷土史本である。この郷土史の探究と著作の発表によって東春日井郡の歴史研究に先鞭がつけられたと評価されている。また、考古学、人類学の手法も織り交ぜた歴史研究を行った点でも新しさがあった。こうした応助の学恩を受けた後進の郷土史家の多いことも特筆される。 1923年(大正12年)に出版された『東春日井郡誌』は郡制が廃止されるのを記念した東春日井郡の事業であった。1922年(大正11年)4月、東春日井郡長鈴木寿三郎(竹屋)から相談された小牧町長の落合与七より推薦を受け、応助は『東春日井郡誌』編纂主任に就任した。助手の船橋茂三郎と共に郡内の古社古寺名所旧蹟を見て回り、写真撮影をし、風俗伝説の聞き書き等を行った。応助は写真の担当でもあった。編纂途中長男が脳膜炎で死去する不幸があったものの、資料調査委員33名が蒐集した郷土資料も参考にこれらをまとめ、翌1923年1月に1377ページの大著を脱稿、7月に出版した。 また同年夏に『御嶽開山覺明靈神』を執筆するために御嶽山を登山し、三日かけて旧蹟を行脚した。御嶽山は東春日井郡牛山(現春日井市牛山町)出身の覚明行者(享保3年(1718年) - 天明6年(1786年))が中興開山したことで知られ、今でも牛山には覚明行者を祀る牛山覚明堂がある。応助は郡誌編纂のための取材中に覚明に興味を持ち、応助と同郷の御嶽行者の協力を得て伝記執筆を始めた。御嶽山以外にも中津川や枇杷島、新川等にあった覚明ゆかりの旧蹟を巡り蒐集した史料を元に、1924年(大正13年)8月、覚明菩提寺の瑞林寺を版元に、御嶽教管長神宮徳壽と東春日井郡長鈴木竹屋(竹屋は鈴木寿三郎の号)の序言を附して『御嶽開山覺明靈神』を出版した。また、1928年(昭和3年)にはこの著作を元に応助自らが脚色を担当して、小牧山で撮影し映画を制作、「覺明靈神」と題して公開した。 同じく1924年、初代東春日井郡長であった林金兵衛(文政8年(1825年) - 明治14年(1881年))の略伝、『贈從五位林金兵衞翁畧事績』12ページを、その翌年には本伝にあたる『贈從五位林金兵衞翁』を548ページで出版した。金兵衛は上条村(現在の春日井市上条町)の出身で水野代官所総庄屋の立場にもあった。幕末期には尾張藩草莽隊の一つ草薙隊の隊長として働いた。明治期には県会議員や東春日井郡長も務め、地域の名士であった。その養子で後に衆議院議員にもなった林小参は父金兵衛の幕末における勤王活動の功績の顕彰のために、少なくとも大正初期まで金兵衛の士族編入運動を続けた。まず1883年(明治16年)、林家の中興の祖に当たると言う今井兼平七百回忌法会を、兼平歿地である近江粟津原において行い、林家の名家たる系譜を公に知らしめた。また1901年(明治34年)には、林家の屋敷のあった上条城跡地に枢密院副議長であった東久世通禧の撰文で「上條城趾存旧碑」が建立された。その碑文には兼平の時代から今に至る林家の歴史が仔細に書かれた。こうした努力が実って1924年(大正13年)2月11日、昭和天皇成婚記念として国家功労者に対しての贈位があり、金兵衛はその内の一人として従五位を贈位された。これを記念して同年、「故春日井郡長林金兵衞之墓」と、安寧天皇から始まるという林家の系譜が記された「林家歴代之聖墓」の二基が新たに建てられた。そして、同年、小参が応助に依頼し金兵衛の略伝が執筆された。略伝に続く本伝執筆の際には応助は約一年もの間林家に泊まり込んで、林家に伝わる文書と小参の助言をもって金兵衛の事績を細かに調べ上げ、途中応助の二女が死去する不幸を乗越えて、1925年(大正14年)11月、『贈從五位林金兵衞翁』と題して出版した。その表題は名古屋市長者町に住まっていた書家の永坂石埭に揮毫を依頼した。以降応助と永坂は終生の知友となったという。 1915年(大正4年)、大正天皇の御大典記念として有志により小牧町史編纂事業が企画されたが、企画のみで事業は頓挫してしまった。しばらく後、1924年(大正13年)1月の昭和天皇成婚を記念して同年8月、再び町史編纂事業が起こされた。そして、結成された小牧町史編纂會の会長である村瀬準三郎(櫟堂)から旧知の応助へ執筆が嘱託された。執筆のための資料の蒐集には途中から小牧町教育會の協力もあった。本文のみならず附録の一枚物の地図や本文挿入の写真、それだけでなく書籍の装丁図案まで応助が担当した。応助は翌年5月中旬に原稿を書き上げ、若山善三郎による序文をつけて『小牧町史』は大正15年(1926年)12月、424ページで出版された。 その後も応助は、徳川家康が幼少の頃田原城主戸田康光に拐されたときに織田信秀を通して預けられた加藤順盛を先祖に持つ加藤家の歴史を辿った『加藤家史』(1927年(昭和2年))や、『小牧と史蹟』(小牧町役場、1927年(昭和2年))、小冊子の『天正小牧合戦絵圖』(紙本書店、1927年(昭和2年))、『鳳毛麟角集』(贈從五位林金兵衛翁顯彰會、1927年(昭和2年))を出版、編著物では『木津用水史』(木津用水普通水利組合、1929年(昭和4年))、『東春日井郡農會史』(東春日井郡農會、1929年(昭和4年))の編纂を担当と矢継ぎ早に著作を発表した。1933年(昭和8年)から執筆した『小牧消防沿革史』は1942年(昭和17年)4月に完成したが、1945年(昭和20年)3月の戦時中、製本の際に空襲にあい、出版はならなかった。 こうした功績により応助は愛知県史編纂室主任の中井憲三から推薦され1929年6月25日、書記に就任、『愛知県史』編纂に関るようになった。応助は主任に次ぐ次席の立場だった。自宅から県庁まではバスや自転車で出勤した。現地調査では概して三河地方を担当した。また、愛知県史考古学篇担当だった鳥居龍蔵と知り合うこともできた。8月下旬より胃の調子が悪化し、自宅から通えなくなった応助は10月に、添地町にあった天理教山名分教会内の一部屋を借り、ここから出勤していた。しかし2月、さらに病状は悪化、以降欠勤となった。応助自らの見立てではこの胃病は胃アトニーであるという。やむなく応助は1930年(昭和5年)6月30日、書記を辞職した。 四十代より応助は消えゆく史料や資料を惜しみ、その転写蒐集に努めるようになった。この活動は応助自身によれば昭和5年6月から昭和16年12月にかけて、3年間尾張徳川家の蔵書を写したものも含めて七百余巻にもなり、昭和9年10月に小牧山を訪れた徳富蘇峰からも称賛されたという。田畑から採取したり友人知人から譲り受けた考古資料は、最終的に三千余点にもなり、鳥居龍蔵の見分もあるという。また、文書は七十余点、蔵書は一万余点にもなった。さらに、かなり後の昭和28年12月からは地域の芸能音曲や地方名士の談話などの音声資料を録り始め、昭和33年1月からはそれらを8ミリカメラでも撮影しだし、地域文化や名士などの人物、風俗の記録に努めた。 また、1932年(昭和6年)から1937年(昭和12年)にかけてアナウンサー長狩野真一に乞われ、日本放送協会名古屋中央放送局にてラジオ講演を12回行った。うち、初回の1932年6月に放送された「織田信長公三百五十年記念講演「信長公の遺跡と遺物」」は講演の模様が名古屋中央放送局から出版され、1935年(昭和10年)1月8日放送の「勤王美談 草薙隊」は原稿が出版された。
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