旺盛な著述と転写活動とは? わかりやすく解説

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旺盛な著述と転写活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:17 UTC 版)

津田応助」の記事における「旺盛な著述と転写活動」の解説

応助は三十代という壮齢期に大変貧しい生活送っていたが、この時期に一番旺盛執筆行った。応助の著書大半未刊行のものも含めて郷土史本である。この郷土史探究著作発表によって東春日井郡歴史研究先鞭つけられたと評価されている。また、考古学人類学の手法も織り交ぜた歴史研究行った点でも新しさがあった。こうした応助の学恩受けた後進郷土史家の多いことも特筆される1923年大正12年)に出版された『東春日井郡誌』は郡制廃止されるのを記念した東春日井郡事業であった1922年大正11年4月東春日井郡鈴木寿三郎竹屋)から相談され小牧町長の落合与七より推薦を受け、応助は『東春日井郡誌』編纂主任就任した助手船橋三郎と共に郡内古社古寺名所旧蹟見て回り写真撮影をし、風俗伝説聞き書き等を行った。応助は写真担当でもあった。編纂途中長男脳膜炎死去する不幸があったものの、資料調査委員33名が蒐集した郷土資料参考にこれらをまとめ、翌1923年1月に1377ページ大著脱稿7月出版した。 また同年夏に『御嶽開山覺明靈神』を執筆するために御嶽山登山し三日かけて旧蹟行脚した御嶽山東春日井郡牛山(現春日井市牛山町出身覚明行者享保3年1718年) - 天明6年1786年))が中興開山したことで知られ今でも牛山には覚明行者祀る牛山覚明堂がある。応助は郡誌編纂のための取材中に覚明興味持ち、応助と同郷御嶽行者協力得て伝記執筆始めた御嶽山以外にも中津川枇杷島新川にあった覚明ゆかりの旧蹟巡り蒐集した史料元に1924年大正13年8月覚明菩提寺瑞林寺版元に、御嶽教管長神宮徳壽東春日井郡鈴木竹屋竹屋鈴木寿三郎の号)の序言を附して『御嶽開山覺明靈神』を出版したまた、1928年昭和3年)にはこの著作元に応助自らが脚色担当して小牧山撮影し映画制作、「覺明靈神」と題して公開した同じく1924年初代東春日井郡であった林金兵衛文政8年1825年) - 明治14年1881年))の略伝、『贈從五位林金兵衞翁畧事績12ページを、その翌年には本伝にあたる『贈從五位林金兵衞翁』を548ページ出版した金兵衛上条村現在の春日井市上条町)の出身水野代官所総庄屋立場にもあった。幕末期には尾張藩草莽隊の一つ草薙隊隊長として働いた明治期には県会議員東春日井郡長も務め地域名士であった。その養子で後に衆議院議員にもなった林小参は父金兵衛幕末における勤王活動功績顕彰のために、少なくとも大正初期まで金兵衛士族編入運動続けた。まず1883年明治16年)、林家中興の祖に当たると言う今井兼平七百回忌法会を、兼平歿地である近江粟津原において行い林家名家たる系譜公に知らしめた。また1901年明治34年)には、林家屋敷のあった上条城跡地枢密院副議長であった東久世通禧撰文で「上條城趾存旧碑」が建立された。その碑文には兼平時代から今に至る林家歴史仔細に書かれた。こうした努力実って1924年大正13年2月11日昭和天皇成婚記念として国家功労者に対して贈位があり、金兵衛その内一人として従五位贈位された。これを記念して同年、「故春日井郡林金兵衞之墓」と、安寧天皇から始まるという林家系譜記された「林家歴代之聖墓」の二基が新たに建てられた。そして、同年小参が応助に依頼し金兵衛略伝執筆された。略伝に続く本伝執筆の際には応助は約一年もの間林家泊まり込んで林家に伝わる文書小参助言をもって金兵衛事績細かに調べ上げ途中応助の二女死去する不幸を乗越えて、1925年大正14年11月、『贈從五位林金兵衞翁』と題して出版した。その表題名古屋市長者町に住まっていた書家永坂石埭に揮毫依頼した以降応助と永坂終生知友となったという。 1915年大正4年)、大正天皇御大典記念として有志により小牧町編纂事業企画されたが、企画のみで事業頓挫してしまった。しばらく後、1924年大正13年1月昭和天皇成婚記念して同年8月、再び町史編纂事業起こされた。そして、結成され小牧町編纂會の会長である村瀬三郎堂)から旧知の応助へ執筆嘱託された。執筆のための資料蒐集には途中から小牧町教育會協力もあった。本文のみならず附録一枚物地図本文挿入写真それだけでなく書籍装丁図案まで応助が担当した。応助は翌年5月中旬原稿書き上げ若山三郎による序文をつけて『小牧町史』は大正15年1926年12月424ページ出版された。 その後も応助は、徳川家康幼少の頃田原城戸田康光に拐されたときに織田信秀通して預けられ加藤順盛先祖に持つ加藤家歴史辿った加藤家史』(1927年昭和2年))や、『小牧史蹟』(小牧町役場1927年昭和2年))、小冊子の『天正小牧合戦絵圖』(紙本書店1927年昭和2年))、『毛麟角集』(贈從五位林金兵衛顯彰會、1927年昭和2年))を出版編著物では『木津用水史』(木津用水通水組合1929年昭和4年))、『東春日井郡農會史』(東春日井郡農會1929年昭和4年))の編纂担当矢継ぎ早に著作発表した1933年昭和8年)から執筆した小牧消防沿革史』は1942年昭和17年4月完成したが、1945年昭和20年3月戦時中製本の際に空襲にあい、出版はならなかった。 こうした功績により応助は愛知県編纂主任中井憲三から推薦され1929年6月25日書記就任、『愛知県史』編纂関るようになった。応助は主任に次ぐ次席立場だった。自宅から県庁まではバス自転車出勤した現地調査では概して三河地方担当したまた、愛知県考古学担当だった鳥居龍蔵知り合うこともできた。8月下旬より胃の調子悪化し自宅から通えなくなった応助は10月に、添地町にあった天理教山名教会内の一部屋を借りここから出勤していた。しかし2月、さらに病状悪化以降欠勤となった。応助自らの見立てではこの胃病胃アトニーであるという。やむなく応助は1930年昭和5年6月30日書記辞職した四十代より応助は消えゆく史料資料惜しみ、その転写蒐集努めようになった。この活動は応助自身によれば昭和5年6月から昭和16年12月にかけて、3年尾張徳川家蔵書写したものも含めて七百余巻にもなり、昭和9年10月小牧山訪れた徳富蘇峰からも称賛されたという。田畑から採取した友人知人から譲り受けた考古資料は、最終的に三千余点にもなり、鳥居龍蔵見分もあるという。また、文書七十余点、蔵書一万余点にもなった。さらに、かなり後の昭和28年12月からは地域芸能音曲地方名士の談話などの音声資料を録り始め昭和33年1月からはそれらを8ミリカメラでも撮影しだし、地域文化名士などの人物風俗記録努めたまた、1932年昭和6年)から1937年昭和12年)にかけてアナウンサー狩野真一に乞われ、日本放送協会名古屋中央放送局にてラジオ講演12行った。うち、初回1932年6月放送された「織田信長三百五十年記講演信長公の遺跡と遺物」」は講演模様名古屋中央放送局から出版され1935年昭和10年1月8日放送の「勤王美談 草薙隊」は原稿出版された。

※この「旺盛な著述と転写活動」の解説は、「津田応助」の解説の一部です。
「旺盛な著述と転写活動」を含む「津田応助」の記事については、「津田応助」の概要を参照ください。

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