覚明行者とは? わかりやすく解説

覚明 (行者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/08 03:49 UTC 版)

覺明
 享保4年(1719年)- 天明7年(1787年)7月23日
尊称 覺明霊神
生地 尾張国春日井郡牛山皿屋敷
愛知県春日井市牛山町431)
没地 御嶽山九合上の二の池畔
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覺明(かくめい)は、江戸時代中期に活躍し、多くの信者に信仰された修験道行者

生涯

享保4年(1719年尾張国春日井郡牛山皿屋敷(現在の愛知県春日井市牛山町431)の丹羽清兵衛と千代の長男として生まれた。幼名は源助。俗名は仁右衛門

8歳の時に春日井郡土器野新田村[1]の 農家へ養子に入った。

やがて20代で出家して枇杷島村にある曹洞宗の清音寺の徒弟となり道生と号した。後に医師の井上龍正の箱持ちとなったりした。

児玉村から妻としてお梅を娶り、土器野[2]の阿弥陀堂前に住み、米屋伊助方に雇われ、妻と餅や粥を商い、時に赤貧洗うが如く生活苦に喘いでいたところ、阿弥陀寺で蓄財していた僧が、何者かに殺害される事件が起きて周囲から疑いの目が向けられることとなり居づらくなった。

宝暦2年(1752年)春、34歳の時に、ある日、僧となって 修行の旅に出ることを決意し、彼は決然として妻を離別した。

尾張・美濃から京都・奈良へと3年の月日をかけて、巡拝修行を続け、高野山弘法大師の偉大さに心を打たれ、しばらくの間、真言密教を学んでいたが、単身で四国八十八箇所を7回巡拝を行うことにした。

宝暦8年(1758年)、宝暦9年(1759年)、宝暦11年(1761年)、宝暦13年(1763年)、明和元年(1764年)、明和3年(1766年)と四国八十八箇所の巡拝を行い、最後の7回目の巡拝中の

明和3年(1766年)4月18日、土佐国蹉陀山[3]で、白川権現[4]が降臨し、覚明の二字を授かり、「汝、信濃国御嶽山を開け」という木曽御嶽を開山せよの神託を受けて、鉦鈷石(しょうこいし)を授かった。

そして僧となり、台密二教を修め、深く御嶽山神を尊崇し、木曽に巡錫して多くの信徒を得、巡拝行脚の道中、御嶽の山容を拝し開闢の念を固めるとともに、霊峰たる由縁の御神威を示せとの神告を受けた。

その後、覺明は、生まれ故郷の牛山村へ戻り、準備を整えたうえで、まず美濃国信濃国の境に聳える恵那山を開闢することにした。

明和4年(1767年)、恵那山で17日間の断食修行を行った。

その修行を終え、当時、中津川宿の近くにあった槙坂茶屋で休憩をした際に主人から接待を受けた。

翌朝、茶屋の主人である古根佐次兵衛に依頼された祈祷が評判を呼び、大勢の人に祈祷を依頼されるようになり、この地で3年間を過ごした。

覺明は、古根佐次兵衛に記念として鉦鼓に用いた石[5]や湯呑・数珠を渡して去った。

岐阜県中津川市の「覺明神社」は、槇坂茶屋の主人であった古根佐次兵衛が、覺明の没後に祀ったのが始まりと伝えられている。

覺明は恵那山開闢の経験にもとづいて、ついで御嶽山開山を目指した。

江戸時代、尾張藩木曽谷一体を「御留山(おとめやま)」として、入山を禁止していた。これは、国防および山林の保護、また、ヒノキ材の独占が目的であった。これにより登拝は一時中断され、信仰の拡大も停止していた。

御嶽登拝は一部道者のみの重潔斎[6]を持って登拝が許されるのに対し、覚明は精進潔斎を簡略化した軽精進による一般者の登拝を願っていた。

天明2年(1782年)、木曽御嶽山の開闢を志し、あらゆる困難を克服し、難行苦行の末、一般信者による軽精進潔斎での御嶽登拝を麓の黒沢村の黒沢御嶽神社の神官であった武居家に願い出たが「厳重な重潔斎による登拝を破ることは神威を穢すことになり、また山内には巣山留山があり立入禁止である」として許さなかった。しかし覚明は軽精進潔斎を断念せず、6月8日に覚明以下、黒沢村薮原の徳蔵ら8人、6月14日には尾張の信者など30余人、6月28日には7~80人と「大先達覚明行者」の幟旗を掲げて登拝した。

覺明の無断登拝の報告を受けた山村代官は、登拝の報告を受けて登拝者123人を尾張藩の木曾代官所に召し出して、「お叱り、福島宿3日間預け」とし、覺明は21日間拘留の憂目に逢うに至った。さらに宿を貸した黒沢村の者達を7日間の福島宿預けとした。

再三に渡る厳しい詮議を受けながらも黒沢口登山道の改修に老骨に鞭うちながら御嶽解放の日を願った。

覺明は、山道を拓くため、村人たちに農耕や医薬の知識を与える等、あらゆる努力の末に、ついにその協力を得た。霊山を拓くについてはいろいろと誤解もあったが、覺明の苦心と努力が報いられて、目的を達成したことは、行者の徳行のしからしめたものである。

村の庄屋などから激しい迫害を受けたが、それに屈することなく、やがて誠意が認められ、

天明4年(1784年)に覺明によって三岳村の黒沢口が開かれ、

天明5年(1785年)の夏に御留山でもある御嶽山へ無許可で、自ら先達となり、数十名の信徒を連れて黒沢口より頂上登拝を決行し、従来とは異例の信仰を築いた。しかしながら世の中から迫害にさらされる一面も兼ねていた事は云うまでもないが、ようやく御嶽山開山を果たした。

天明7年(1787年)7月23日に、月日の経過と伴に協力者も増え難行も急展開に向ったが、大事業完遂目前に、御嶽山九合上の二の池畔で病に伏し諸人救済を誓言しつつ壮絶な立ち姿のまま往生を遂げた。

遺体は、黒沢口登山道九合目半に建つ「覚明堂」[7]の正面の「霊神場」に埋葬されて祀られている。

後に信者たちは遺志を受け継ぎ、黒沢口登山道を見事に完成させた。

寛政6年(1794年)には、武蔵国の行者・普寛によって王滝口が一般民衆に開放され、これを機に木曽周辺で留まっていた御嶽信仰が全国的な信仰へと広がっていった。

覺明は生涯を御嶽山の解放と、登山道の改修に捧げた処多くを布教する事なく一生を閉じたので、後世その遺徳を慕う弟子達が信者を結集して覺明講(誕生講)を創設し、近代御嶽信仰の繁栄に尽くした。牛山村の多治右ェ門は、覺明講(誕生講)を広めて、それが現在に及んでいる。

現在誕生地には、覺明霊神の石像や産湯の井戸などがある。

史跡

  • 覺明堂(覺明霊神誕生地) 愛知県春日井市牛山町428-3
  • 覺明堂(覺明霊神居住跡) 愛知県清須市中河原129
  • 覺明堂・霊神場(墓所) 長野県木曽郡木曽町三岳 黒沢口登山道九合目半 <2014年の御嶽山噴火の際に崩壊>

信仰団体

  • 御嶽教槙坂覺明教会(覺明神社) 岐阜県中津川市中津川967
  • 御嶽教朝日山覺明教会 岐阜県中津川市東宮町8-19

関連する宗教法人

参考文献

  • 『覚明霊神 : 御岳開山』 津田応助 著 出版者 瑞林寺 大正13年
  • 『御岳 と ともに : 覚明 霊神 御一代記 [改訂版]』 河村広康 覚明霊神史蹟保存会 1994年
  • 『覚明霊神御嶽開山記 : 詩による組曲 (新詩集シリーズ ; 18)』 大地の巡礼一心 著 抒情文芸刊行会 2005年
  • 『村誌 王滝 歴史編Ⅰ』 第十節 御嶽山開山-修験の山から登拝の山へ 覚明の黒沢口開山 p200~p201 王滝村誌編纂委員会 令和2年
  • 『恵那郡史』 終篇 雑志 第二章 傳説 覺明石 p739 加藤護一編 恵那郡教育会 大正15年

関連リンク

脚注

  1. ^ 愛知県清須市中河原129
  2. ^ 江戸時代、尾張藩の土器野刑場が近くにあった。
  3. ^ 高知県土佐清水市
  4. ^ 延長3年(925年)白川少将重頼が木曽御嶽山へ登山し木曽御嶽山頂上奥社の神殿を再建した。御嶽山三十八座の一座で、白川地区に鎮座する白川神社の神となっている。(北白川宿衛小将重頼/きたしらかわすくえしょうしょうしげより)が神格化された神である。
  5. ^ 「覺明石」または「ちんち石」と呼ばれる
  6. ^ 従来、御嶽山に登る者は、百日間の精進が求められていた。4月8日から百日間、白衣を着て、食事道具を新たにし、別火(他の家族とは別の火を用いた料理を食べること)となる。潔斎中は男女同衾を禁じ、五辛と魚鳥を食すことが禁じられた。精進期間中、御嶽山三十八座巡拝などの修行を経て、ようやく6月14日に至って二日間かけて御嶽山に登拝していた。
  7. ^ 平成26年9月27日(2014年の御嶽山噴火)の際に崩壊した。

覚明行者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:51 UTC 版)

御嶽山」の記事における「覚明行者」の解説

覚明行者(かくめいぎょうじゃ)は、1718年享保3年3月3日尾張国春日井郡牛山皿屋敷農夫丹羽清兵衛左衛門)と千代の子として生まれ幼名源助で後に仁右五衛門に改名幼少期新川村土器野新田農家養われていた。出身地愛知県春日井市立牛山小学校校歌で、「北に御岳見はるかす 覚明行者の産湯の街に」と歌い込まれている。1818年文政元年10月の『連城随筆』で「医師の箱持ちをした後お梅結婚し餅屋開き商いをしていた」と記録されている。ある時予期せぬ出来事盗み働いた疑われことがきっかけとする説がある)が起こり各地巡礼修行をして行者となった木曽谷々で布教活動行い信者増やした1782年天明2年御嶽山管轄する神職武居家と尾張藩木曽代官山氏に登山許可請願行ったが、数百年に渡る従来の登拝型式精進潔斎)を破ることになるため却下された。しかし登山許可がないまま1785年天明5年6月8日地元住民8名と、6月14日には尾張38名の信者らと、6月28日には約80名を引き連れて強引に登拝を行った。登拝したものは罪を受け、覚明行者も21日拘束受けたとされている。1786年天明6年)にも多数同志引き連れて登拝を強行し黒沢登山道改修行ったが、その最中6月20日ニノ池畔で病に倒れ、その直下にある黒沢口合目覚明堂の宿舎上の岩場埋葬された。山小屋覚明堂」の横に覚明行者の霊場現存するその後覚明行者の志を受け継いだ信者により黒沢口登山道改修完結され、覚明行者が強行拝したことによって事実上の「軽精進による登拝解禁となった信者増加し福島宿経済効果生まれようになったこともあり1791年寛政3年6月には麓の庄屋連名武居家に軽精進登拝の請願提出し1792年寛政4年1月1日許可下された6月14日から6月18日まで間に、入山料200文を徴収し、軽精進による登拝を認めるという規定作られた。1850年嘉永3年)に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。覚明行者は麓の開田西野村人に「アカマツ育てば必ず稲ができる」と教え村人植えた育ったことから開田地名生まれ、その由来1806年文化3年)に設置され稗田の碑に刻まれている。御嶽山中興開山させた先駆者とされている。

※この「覚明行者」の解説は、「御嶽山」の解説の一部です。
「覚明行者」を含む「御嶽山」の記事については、「御嶽山」の概要を参照ください。

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