覚書の締結
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岸政権で通産大臣・科学技術庁長官、原子力委員会会長を務めた高碕達之助は岸退陣後、大日本水産会会長となり、1960年・1962年にも松村らと訪中。日中貿易の進展について中共側要人と交渉を重ねた。この頃、全日空社長岡崎嘉平太を中心に、対中プラント輸出に政府保証の延べ払い方式を採用する新たな貿易案が提案された。池田首相はこの提案を受け入れ、正式に松村に調整役を委託、訪中に際し全権を与えた。1962年9月には松村謙三が岡崎提案を持って訪中し、周恩来首相と会談、両国貿易の全面修復がはかられた。 翌月には訪中経済使節団団長として、高碕達之助が岡崎嘉平太など企業トップとともに訪中し、中共側の廖承志と会談。11月9日に「日中総合貿易に関する覚書」が調印され、経済交流が再開されることになった。署名者である廖と高碕のイニシャルからLT協定と呼ばれることになる。また、同時に日中漁業協定も締結された。LT貿易協定はそれまでの民間でおこなう友好貿易とは異なり、実際的には政府が保証し、両国が連絡事務所を置くことも規定された、半官半民的な長期バーター取引の性格を持っていた。協定の期限は1967年12月31日までとし、その後両国が希望すれば延長する、とした。 LT貿易のため設置された高碕達之助事務所と廖承志事務所は、それぞれ日中両国にとって半ば公的な交渉の窓口としての機能も果たした。1964年(昭和39年)に高碕は死去するが、直後の4月19日には、高碕事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(日中記者交換協定)。しかし、この協定により日本のマスコミは、中共政府に不利益となるような報道や中華民国(台湾)を独立国家として扱うことを制限されることとなり、報道の自由に悖る慣習が形成された。またこれらの動きにより、中華民国側は態度を硬化させることとなる。
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