全日空社長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 04:36 UTC 版)
1952年に全日空の前身である日本ヘリコプター輸送副社長となり、1961年には美土路昌一の後を継いで全日空の第2代社長に就任する。岡崎が社長に就任した当時の日本の航空業界は、全日空も1956年度を除き、1959年度まで7度の経常赤字を計上していた。岡崎は会社を一つにまとめつつ、極東航空や藤田航空を吸収合併し規模を拡大させている。 しかし、1966年に全日空羽田沖墜落事故、全日空松山沖墜落事故と航空事故が相次ぎ、安全を度外視して拡張の道を進み、挙句の果てに1年に2度の全員死亡事故を起こした全日本空輸は乗客の信頼を完全に喪失して経営困難に陥り、社長から一般社員に至るまでフラッグキャリアの日本航空の出向から出資まで受けて再建を余儀なくされる。翌1967年に社長を辞任する。
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