旺盛な執筆活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:08 UTC 版)
寛政8年(1796年)、30歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年に耕書堂から刊行された読本『高尾船字文』は馬琴の出世作となった。より通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した。 享和2年(1802年)5月から8月にかけて、馬琴は関西地方を旅行した。大田南畝の紹介状や、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取り、関西の文人と交流した馬琴は、物語ゆかりの名所をめぐり、また井原西鶴の墓を訪れたりし、私的な旅行記『羇旅漫録』を記している。 享和3年(1803年)には、俳書『俳諧歳時記』を出版した。2600余の季語を収集・分類して解説した事典(季寄せ)であり(俳諧・連歌に関する考証や作法に関する叙述も含む)、こうした季語集を「歳時記」と称した最初の例である。馬琴の『俳諧歳時記』は、従来の季語集が京都中心の記述であったのに対して江戸中心の解説となっているという特色がある。後の嘉永4年(1851年)、『俳諧歳時記』に藍亭青藍が増補した『増補俳諧歳時記栞草』は、広く用いられた。 文化元年(1804年)に刊行された読本『月氷奇縁』は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化4年(1807年)から刊行が開始された『椿説弓張月』や、文化5年(1808年)の『三七全伝南柯夢』によって馬琴は名声を築き、他方京伝は読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独擅場となった。文化11年(1814年)に『南総里見八犬伝』肇輯(じょうしゅう)が刊行された。文化13年(1816年)、恩人であり競争相手でもあった京伝が没する。
※この「旺盛な執筆活動」の解説は、「曲亭馬琴」の解説の一部です。
「旺盛な執筆活動」を含む「曲亭馬琴」の記事については、「曲亭馬琴」の概要を参照ください。
- 旺盛な執筆活動のページへのリンク