劇作家から博報堂へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 08:37 UTC 版)
1949年春、劇作家としての処女作となる舞台劇脚本『風のない夜』を発表。6月には結婚前の娘の心情を描いたラジオドラマ脚本『結婚の前夜』がNHKラジオで取り上げられ、梅田は放送作家としてデビューする。翌年には、『五月の花』が佐藤春夫の推薦を受け、第2回水上瀧太郎賞を受賞。その後、内村直也の門下に入り、劇作家として本格的に執筆活動を開始する。 1951年(昭和26年)、演劇人育成のために、内村と「芸術協会」を設立し、後進の指導にあたる一方、新進脚本家として旺盛な執筆活動を行なった。なかでも舞台劇の『未知なるもの』、ラジオドラマの『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』や『母の肖像』などは聴取者や評論家たちから高い評価を受け、一時は東宝の専属脚本家として川端康成の『伊豆の踊子』の映画脚本を書くなど、昭和30年代にかけて数千本にのぼる脚本を執筆したという。1953年(昭和28年)10月13日、梅田の父、潔が狭心症のため81歳で死去。梅田は当時放送中だったラジオドラマ『みゆき』を小説に書き直し、亡き父に捧げた。 1955年(昭和30年)結核のため妻の喜美が死去。梅田家は東京都渋谷区に転居。しばらくして宝塚歌劇団出身の女優と3度再婚するが、いずれも間もなく離婚。1959年(昭和34年)には映画女優の万里陽子(本名:政江)と再婚。翌年、長男望夫が誕生したのを機に劇作家としての活動から退き、広告代理店の博報堂に入社。この時期には仕事の関係で渡欧もしている。1960年(昭和35年)には同社の取締役に就任し、2期4年間その任にあたるが、長女のみかが誕生したのを機に博報堂を退社し、日本放送作家協会常務理事に就任。世田谷区代沢に転居する。
※この「劇作家から博報堂へ」の解説は、「梅田晴夫」の解説の一部です。
「劇作家から博報堂へ」を含む「梅田晴夫」の記事については、「梅田晴夫」の概要を参照ください。
- 劇作家から博報堂へのページへのリンク