劇作家としての誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)
「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「劇作家としての誕生」の解説
森林開発を巡って召使との滑稽な闘争を繰り広げていたボーマルシェであったが、何もその期間中ずっとそれにのめり込んでいたわけではなかった。この頃の彼の生活は、充実したものであった。劇作家として活動を始めたのもこの頃である。まず、デビュー作『ユージェニー』が1767年1月29日に、コメディー・フランセーズで初演された。この作品はまずまずの成功を収めたので、それに続いて第2作目『2人の友、またはリヨンの商人』を制作し、1770年1月13日に初演させたが、こちらは大失敗してしまった。この2作品のジャンルは町民劇と呼ばれるものであるが、状況設定に無理がある筋立てで、特にそれは2作目の『2人の友』において顕著である。上演はたった10回で打ち切られ、批評家からは「宮廷で職を購ったり、空威張りしたり、下手くそな芝居を書くよりも、よい時計を製作しているほうがずっとましだった」と、辛辣な批判を投げつけられる始末であった。これまでに見てきたボーマルシェの行動からいって、この件でも何らかの行動を起こすかと思いきや、この件に関しては沈黙を貫いた。おそらくかなり痛いところを突かれてすっかり意気消沈したのであろう。今後純然たる町民劇を書くことはなくなったが、その美学を放棄したわけではないことはフィガロの3部作によって示されるのである。 1768年4月、36歳のときにジュヌヴィエーヴ=マドレーヌ・ワットブレドと再婚した。彼女は王室典礼監督官(1767年12月に死亡)の未亡人であったが、いつごろから交際を始めたのかはわからない。通常10か月間とされる服喪期間を無視してまで結婚していることから察するに、夫婦仲は相当に良かったようだ。同年の12月には長男が誕生しているところを考えると、未亡人となる前から関係があったのは確実であろう。夫妻の間には2人の子供が生まれたが、いずれも夭折した。夫人には亡き夫からの多額の年金が入るため、生活は豊かであったが、最初の結婚と同様にこの結婚も長くは続かなかった。1770年3月に娘を出産したころから夫人の健康は悪化し、肺結核に罹患して11月に死去してしまった。ボーマルシェは夫人を手厚く看護したと伝わる。夜中に肺結核の症状、激しい席の発作に苦しむ夫人を哀れに思って、病気がうつると家族に忠告されても聞き入れず、ベッドを共にして彼女を労わり続けた。それを医者に強制的に止めさせられた際には、別のベッドを夫人の部屋に入れて、最期を看取ったという。
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