森林開発を巡って
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)
「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「森林開発を巡って」の解説
1年間のスペイン滞在は、外交的な成果は何一つないものであった。スペイン文化の吸収という点で、個人的な収穫はあったかもしれないが、祖国フランスへは貢献できなかったし、恋人をも失った。彼がフランスに帰国すると、婚約関係にあったポリーヌ・ルブルトンとは関係がすっかり冷え込んでしまっていた。そうなった原因はわからないが、おそらく不在期間が長すぎたのであろう。この頃彼らの間に交わされた手紙ではお互いを非難しあっており、まるで噛み合っていない。結局ポリーヌは別の男性と結婚し、こうしてボーマルシェは人生で(おそらく)初めて失恋の悲しみを味わった。その悲しみを癒そうとしてか、1766年、事業家としてシノンの森林開発に乗り出した。 シノンはパリから遠く離れたトゥーレーヌ地方の要衝で、この郊外に広がる広大な森林は国王の所有地であった。1766年の末、この森の一部が売りに出されることを知ったボーマルシェは、パーリ=デュヴェルネーから融資を受け、この森の開発事業に乗り出すことにした。ところが、彼が就いていた公職「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」が森林を取得するのに障害となった。この長ったらしい職名を見ればわかるように、この職の任務は「国王所有地を守り、管理する」ことであった。そのような職業に就いている男が、国王所有地の売却に際して真っ先にそれに飛びつき、開発して利益を得ようとしているというのは極めて具合が悪い。これは現在で言えばインサイダー取引と同じようなものであるから違法であるし、当時の法律でも森林に関する公職に就く者が森林の競売に参加することは固く禁じられていたので、やはり違法なのであった。 困ったボーマルシェが思いついたのは、召使セザール・ルシュユールを名義人に仕立てあげることであった。これ自体法律の抜け穴をくぐった脱法行為であるが、当時としてはそれほど珍しいことでもなかったらしい。1767年2月、ボーマルシェは私的な証書を作成し、ルシュユールに単なる名義だけの存在であることを確認させたが、この召使は中々狡猾な男であった。ルシュユールは、主人であるボーマルシェがなぜ競売に参加せずに自分を名義人に立てたか、その理由を知った途端に主人を脅し、口止め料として2000リーヴルを要求した。ボーマルシェはこの要求を一蹴し、ピストルを突き付け、2度とこの類の脅迫をしないことを誓わせた。だが、ルシュユールは主人が知らない間にシノンへ足を延ばし、仕事でミスを犯して首になっていた森林開発の小役人であるグルーと結託して共同で会社を設立し、勝手に森林の開発に乗り出した。この行為を知って、ボーマルシェが激昂したのは当然であった。彼は憲兵とともにすぐさまシノンへ馬を飛ばし、ルシュユールを捕縛したのち、公証人立ち合いのもとで裏切りを白状させた。ところが、懲りないルシュユールは、解放されて再び自由を手に入れると、グルーと共謀して森林監督代官にボーマルシェの不法行為を訴え出た。代官はルシュユールの主張を支持し、名義人である彼の権利を認めた上、ボーマルシェに召喚状を発して、彼に対する暴行及び脅迫の罪で出頭を命じた。 ボーマルシェからすれば、森林に関する公職に就いている以上は、自身の行為を暴露されたくはないし、かといって召使ごときに頭を垂れるなど耐え難いことであった。彼は、パリの森林監督庁に提訴して自身の権利を守ろうとする一方で、親しくしていた公爵を通じて大法官への謁見を願い出て、庇護を求めた。さらにルシュユールの身元を拘束するために、王の封印状( Lettre de cachet 、これさえあれば好き勝手に人を逮捕出来た)を手に入れ、シャトレ牢獄にぶち込もうと画策したのであった。ルシュユールも負けておらず、逆にボーマルシェを横領犯として告訴しようと、請願書を提出した。当時のパリの警察長官サルティーヌはボーマルシェと知り合いであり、彼には好意的であったが、この泥仕合を快く思っていなかったようで、どちらの主張にも与することなく、中立的な立場を取り続けた。 絶対に勝たねばならん、牢獄にぶち込まねばならぬ、と息巻くボーマルシェは、いくら請願を行っても無駄であることを察知し、ルシュユールの身内を懐柔して攻撃に利用することにした。ルシュユールの妻に働きかけて「夫が家財道具の一切を持ち出したために、生命の危機に晒された」との内容で訴訟を起こさせたのである。この仕打ちにはルシュユールも打つ手がなくなったのか、ついに降参し、法廷でボーマルシェが森林の本当の落札者であることを認めた。1768年3月21日、ようやくボーマルシェはルシュユールを牢獄にぶち込むことに成功したが、わずか4か月足らずで釈放されてしまった。この後も無益な裁判が2年に亘って延々続いたが、結局白黒を付けることなく、お互いの痛み分けということで決着がつけられた。 パーリ=デュヴェルネーと出会い、事業家として着実に階段を上っていたボーマルシェにとって、シノンの森林開発事業は魅力的であったに違いないが、遺されている手紙から察するに、この森に相当な愛着を持っていたことが窺える。都会を離れて、素朴で親切な田舎人たちと交際し、大自然と調和した暮らしを送るよろこびが手紙には現れている。こうした愛着があったからこそ、徹底的に闘い抜いたのだと考えられるが、それにしてもボーマルシェとルシュユールの繰り広げたこの一連の騒動は、18世紀初頭から流行していた風俗喜劇をまさに地で行く、傍から見れば笑い話でしかない滑稽なものであったことも、指摘しておかねばならない。
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