劇作と通俗の時代
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1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終結、北里は台湾におり、西川満、濱田隼雄とともに劇団「制作座」を同地で結成した。翌1946年(昭和21年)1月には、北里が中心となって台北中山堂で「制作座」第3回公演を行っている。その後、北里は東京に戻り、同年3月に小沢不二夫、小崎政房らが結成した劇団「空気座」の文芸部に参加したが、同劇団は1949年(昭和24年)には解散している。1947年(昭和22年)1月に新宿・帝都座で初演された「額縁ショー」(演出秦豊吉)は、北里のアイデアによるものだという。戦後間もない1946年、池袋駅東口に池袋アヴァンギャルド(のちの池袋アバン座、池袋1丁目756番地)という、座席数150名前後の小劇場が開業したが、当初同劇場は、1950年(昭和25年)6月25日に豊島区の行事が行われるような劇場であった。当時の経営者は琴代京平(別名小國狂二)であったが、翌1951年(昭和26年)に北里が経営を交代し、自らの劇団「グランギニョール」の根拠地とした。北里による同館の経営は1957年(昭和32年)まで続く。「ナンセンストリオ」の前田隣はこの時代の同座に在籍した(1956年入団)。このころ「東京ヴァーレスク劇場連盟」が結成され、会長に浅草ロック座の仲沢清太郎、副会長に東劇ヴァーレスクの秋本修一、北里は、新宿セントラル劇場の島津太朗、浅草座の森福二郎とともに理事に就任した。 1963年(昭和38年)1月5日に公開された成人映画『野性のラーラ』(主演ニーナ・ヴォーガンスカヤ)を脚本・監督、北里は映画監督業に進出した。同作は「日本の監督が初めて作った外国映画スコープ」と銘打ったスコープ・サイズの白黒映画であり、解説には芥川隆行、朗読は岸田今日子を起用、吸血マシュシュカと女を描いた作品であった。同作を新潟の映画館で観たという松島利行によれば、「上映が終わると、ヒロインの女ターザンを演じた女優が全裸で舞台に現れ、最前列に出てきて踊るでもなく歌うでもなく右に左に移動した」といい、実演つきの興行を行った。同作を製作したのは、内外フィルム(代表・三木光人、新宿区柏木1丁目、1958年11月設立)であり、同社は、北里を監督に、『ただれた太陽』(主演ローラ・ネグリ、同年9月15日公開)、『霧のラーラ』(主演リタ・ブライアン、1964年10月4日公開)といった成人映画を製作・配給した。 『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一、深田金之助の名を挙げているが、このリストのなかでは北里について言及していない。『ピンク映画水滸伝 その二十年史』の鈴木義昭は、北里は、『肉体の市場(英語版)』(1962年)の小林悟、『肉体自由貿易』(1962年)や『不貞母娘』(1963年)の本木荘二郎、『情欲の洞窟』(1963年)の関孝二につづく史上4人目の「ピンク映画監督」であるとする。田中も同書のなかでこれらの作品とともに『野性のラーラ』を挙げている。 1966年(昭和41年)には「劇団らくだ座」が結成され、同年5月13日 - 同15日、新宿区信濃町の千日谷会堂で第1回公演として、中江良夫の戯曲『恭々しき貧慾者』(演出老川比呂志)とともに、北里の戯曲『贋作風土記』(演出小崎政房)が上演された。当時以降、豊島区南池袋に居を構えた。1978年(昭和52年)には池俊行、淀橋太郎、小崎政房、関英太郎とともに5人で「いきの会」を銀座ガスホールで開いている。 1980年(昭和55年)2月19日、東京都で死去した。満66歳没。『著作権台帳』第26版(最新版)に記載された2001年(平成13年)段階での著作権継承者は、妻の内沢三知子。
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